南の国の太陽、空の色の獅子

Category :  スポンサー広告
tag : 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category : 
tag : 
生きる力 心でがんに克つ生きる力 心でがんに克つ
なかにし 礼

講談社 2012-12-21
売り上げランキング : 26933

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

がん闘病記に分類されるのだろうと思うが、がん治療に関する情報を期待すると外れる。
描かれているのは、著者自身の像である。
私は、著名な作詞家であることしか知らなかったので、内容に少なからず驚いた。

2012年2月に食道がんが発覚したとき、毎年受診していた精密検査をこのときに限って怠っていたことを後悔したが、原因は、東日本大震災だった、と記している。
2011年は、例年通り胃カメラ検査に行こうという心境でなかった。

東日本大震災という国家的危機の状況において、国が一体何かをしてくれるか。その点に関して、旧満州からの引揚者としての私は相当にすれっからしだ。
国というものは情報を隠すし、必ず加害者側の利益保全を考え、犠牲者側には立たないということを、私は第二次世界大戦のときの満州ですっかり味わってしまっている。ソ連軍が攻めてきたとき、関東軍は居留民を置いてさっさと逃亡していた。しかも、彼らは自分たちの“影”をつくろうとして、15・6歳の少年に軍服を着せて、銃に見立てた木の棒のようなものを持たせて、ソ連国境に全員配備した。


もし自分たちが逃げたということを居留民が知ると、居留民はパニックを起こし、国へ帰る引き揚げ列車を出せという騒ぎになる。それをソ連が聞きつけてソ連の侵攻が早まってしまうかもしれないので、「静謐を保て」ということが軍上層部の命令になる。だから、一般居留民にはそういう情報は一切届かない。


日本の陸軍は満州そのものを捨てて、併合していた朝鮮半島を守れということになった。それから大混乱が起きる。私たちは、牡丹江からハルビンに行って、そこで収容所生活が始まる。一日二度のコウリャン粥を食べながら生活しているうちに父親と再会したが、その父親はソ連軍の強制労働に連れられていってしまった。
そこで大人たちは絶望に浸っていた。日本政府は、「居留民は、満州の地で生きるも死ぬも勝手にしろ、日本は、あなた方を迎える余裕も食べさせていく余裕もない」というとんでもない理屈を言ってきた。“国に捨てられた”のは、それが二度目。


お上というのはこんなものなんだ、私は骨身にしみ込んでいるから、原発事故が起きたら国は当然うそをつくし、犠牲者の目線で物事を絶対に見ない。それがわかっていたから、なおのこと3.11及び原発の問題というのは、国が関わっているということで、私にとっては大事件だった。SPEEDIの問題なんかもみんな後でわかることだけれども、「甲状腺の異常と原発事故との因果関係は考えられないと話を合わせましょう」などという秘密会議を開いているわけだから、どうしようもない。第二次世界大戦のときに国家を支配していた人間たちと同じで、今も何も変わっていない。
このような国にあって、どう行動し、どう考えることが一番正しいことなのか、そのことで頭がいっぱいになり、胃カメラ検査を受けている暇がなかった。


著者は、満州での経験次いで帰国後の兄との愛憎といった波乱の人生を、自伝的小説(「兄弟」「赤い月」「黄昏に歌え」)で描いているのだそうだ。初めて知った。



著者の特殊な来歴やパーソナリティを考慮に入れても、本書は、これまで読んだがん闘病記とは非常に異なる印象を私に与えた。
その原因は、「がんに勝った(生還した)」立場での記述だから、だろうと思う。

私が読んできたのは、亡くなった人の遺稿だった。
私ががん闘病記を読む目的は、「自分ががんになって死んでいくことを想定して、死を受け入れる心構えを学ぶこと」であり、ゆえに生還者の本は役に立たないとみなして、選ばない。

実際にがんが発覚する日が来たら、その後は、生還した本ばかり読むようになり、それまでのことなのだろうけれど。

Category : 
tag : 
「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか
石飛 幸三

講談社 2010-02-09
売り上げランキング : 5952

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

毎日考え続ける必要はないが、一度はじっくり考え、そして時々再考すべき問題だと思う。

私は、口から食べられなくなったら、死ぬときだと思う。

人は、食べることによって生きる。食べなければ生きられない。
それが摂理だ。

老衰で終末期を迎えた人の身体に、栄養や水分を無理に与えるのは、負担をかけ苦しめる行為だ、と著者は述べる。

食べることを欲しない身体に無理に食べさせるのは苦しみを与える、という主張に、私は賛同する。
私は、痩せ過ぎで、もっと多く食べた方がいいのだが、自分が食べたい量を超えて食べることは、苦痛でしかない。

胃腸が負担を感じ、辛くなる。多分、消化器官の能力が耐えられない、のだと思う。
どれほど美味しいものを食べていても、許容量をちょっとでも超えたら、それまでの快感が一気に不快に転じる。
だから、満腹まで食べることは決してしない。手前で止める。

老衰でも病気でも、食べたくないときがきたら、それが終わりのときだと思う。
食べたい食べたい、と欲しながら餓死するのは悲惨だが、食べたいという欲望を失って衰弱しての死は、悲惨ではない。むしろ自然だ。

「孤独死」は、否定的に受け取られる向きがあるが、衰弱して静かに死んでいくのであれば、病院で管につながれて生き長らえた果てに死ぬよりも悪い死に方だとは言えぬと思う。


といっても、現実の例を前にすると、一日でも長く生きてほしいと家族が願うことを否定する気持ちは起こらないものだ。

昨秋、数年間入院している伯母が危ないと連絡があり、病院へ会いに行った。
実に「奇怪」なことだが、病室に入ると、胃ろうをつけ、意識があるのかないのか定かでない伯母も、こうやって生き続けることが「まったく当たり前」な光景で、明るくテキパキ世話をしてくれる看護士さんたちに感謝しこそすれ、「これでいいのか」という疑問は全く頭に浮かばない。
数値が持ち直したから大丈夫ですよ、と看護士さんにからっと言われ、親戚一同は、よかったよかった、と退出した。

これは完全に「家族」の立場の感覚であって、「本人」の立場には全く立っていない、ということに気づくのは、帰宅して1人になってからである。

Category : 
tag : 
健康不安と過剰医療の時代健康不安と過剰医療の時代
井上 芳保 近藤 誠 浜 六郎 松本 光正 名取 春彦 梶原 公子 竹中 健 村岡 潔

長崎出版 2012-03-15
売り上げランキング : 24229

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2010/04/23 : がん検診を受けない選択
このページには、「がん検診」「受けない」のキーワードでのアクセスがコンスタントにある。
その方々にお勧めできる本。

章によってレベル差があるが、参考になる点を何かしらみつけられると思う。
X線・CTによる放射線被爆のリスク、がん検診のみならず検診全般の有効性・必要性の問題が提起されており、がん検診を受診するか迷い思案しているとき、どうするかを決める一助になるだろう。

第7章の著者は、子宮がん検診を受けて、異常なしとの結果をもらった直後に、子宮筋腫と診断されて子宮を摘出し、子宮がん検診の有効性に疑いを持った自身の経験を記している。

ついでに、私の経験を書き添える。

母をがんで亡くした後、自分もがんになる不安を抱き、胃がん検診を受けに行った。
ところが、バリウムをうまく飲み込めず、むせて、肺に逆流してしまった。
誤嚥といい、珍しくはないらしい。検査技師は、「この後、もし熱が出たら、医者に行って下さい」。

その通りに熱が出たので、医者に行き、レントゲンを撮ると、白い影が、肺にしっかり映っている。
今までキレイな肺だったのに、検診でこんなことになるなんて本末転倒もいいところだ、とげんなりしながら、「どうすればいいんですか?」
「背をトントンとやって、吐き出すしかないね」
「その方法しかないんですか?」
「全部出すのは無理で、残っちゃうかもしれない」
「残ると、どういう影響が出ますか?」
「肺炎の原因になるかもしれないね」

「年とると、肺炎が原因で死ぬんだよねえ。私が肺炎で死んだら、コレのせいだったかもね、ということかい」
心の中でそう思った私に、更に追いうち。

「あの検診は、全然役に立たないよ。やめときなさい。胃がんが気になるなら、内視鏡検査を受けなさい。胃カメラね。あれだとみつけられるから」

その後、がん検診の有効性の確認を含め、がんについて色々調べ、逐次、知識の更新に努めている。
「無知」さでバカをみるのは自分なのである。

(意識して勉強しているというより、一定期間おきに、身近でがんで死ぬ人が出たり、総合病院へ付き添いに行ったりするので、それが更新の機会になっている)

Category : 
tag : 
瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)
古東 哲明

筑摩書房 2011-03-16
売り上げランキング : 100805

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

私は毎日、明日のために生きていた。明日の試験のために勉強する。明日のなにかのためにこれをやる。でも先生たちは、いま音楽をやっているのが幸せといっておられた。その違いって大きい。こんなに充実して、こんなに生き生きしている人がいるとは思ってもみなかった。それまで私は、今日やりたいことをやって、明日どうするんだろうって思ってたんですよ。

第5章、永遠の瞬間、2.永遠を生きる人々
鈴木重子のインタビューの引用


私も長い間、「明日のために生きる」種類の人間だった。
明日の試験のために勉強し、明日や将来や老後の生活費のために働いた。
常に、未来のために、現在の欲望を満たすことを我慢して暮らしていた。

己の死に対する恐怖と、今自分のいる場所は自分が本来いるべき場所ではないという感覚から逃れられなかった。

そういう日々の後に、「今ここにいること、そのもの」に歓びを感じ、充足を得ることができるようになった。
本書で描かれる「今この瞬間を生きる」ことの幸福を見出した。

「特別ななにか」をなさなくてよい。
「未来の何かのため」に今を生きるのではなく、「今ここ」の充溢をかみしめること。
生を全肯定すること。

かつての私は、このような思考はできなかった。
歳月のなせる技である。



翻って、「年若くても、最初から、それができる人」もいるのだった。
20そこそこの青年の趣味が「釣り」で、L-B-Lを勝ったお祝いに、兄弟で買ったのが、家の近くの「池」?
ひがな釣りをする生活が満足?
自転車選手でなかったら、フィッシャーマン(日本語訳だと「漁師」)か森林警備員、という発言に首をかしげた自分は、都市住民というより、「未来の目標に向けて邁進することをよしとする」時刻社会にどっぷり浸かった人間であることを示していただけだった。

今のアンディに憂いがあるとしたら、自分がTdFに出ていないことではなく、一人でTdFに出ているフランクだろう。
自分が一緒にいないことが、兄にどれだけ負担をかけているか、判っているから。
彼にとって、自転車レースよりも、兄の方が、「大切なもの」だから。

まこと、「気に入る相手」は、自分の「現在の」価値観や倫理観や人生哲学を映し出したものなのである。


ここまで書いた後、「現時点で、来季の仕事場がちゃんと決まっているかどうか判らないなあ。現チームを離脱する課題がまだ解決していないような雰囲気も・・
でも、問題解決作業をやるのは彼ではなくて周りだから、お任せで、本人は気に病んでいないだろう。
代わりに、フランクにかかっているストレスがすさまじくて、胃に穴が開いても不思議ないくらい。大丈夫かなあ。
といっても、パパもいるし、味方になってくれる人たちもいるだろうし(大勢が騙されたから)、一人で背負っているのではないからなんとかなるだろうけど」

とんでもない状況に見舞われているとは思うが、昨年も書いた通り、彼等は一人でなく「一家」で対処するので、外野が心配する必要はないと思っている。(命の危険に晒されているわけでもないしね)

Category : 
tag : 
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
安冨 歩

明石書店 2012-01-07
売り上げランキング : 1536

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

原発関連の本を色々読んできたが、これまでにない読後感。
キツネにつままれたような気分。

前書きを7ページほど読んで、ものすごく期待をした。
本文で何を書いてくれるだろう。

本文を読み始めて、内容・文章共に、「アレ?」
期待感がガタガタに崩れ始め、「いや、きっと得るものがある」と我慢して最後まで読み終わり、「なんだったんだ、この本。いや、この著者って一体」と一種呆然。


私を興奮させた前書きの記述は、日本が原発にのめりこんでいく過程は、戦前の戦争に突き進んだ過程のみならず、バブル時代の銀行の暴走に似ている、という指摘だった。

著者は、京都大学経済学部卒業後、86年から88年まで、住友銀行に勤務したそうだ。
バブル直前の「人々が集団発狂していく」すさまじさに耐えきれず、辞めて、大学院に戻った。

ああ。住友銀行。
住友が通った後にはペンペン草も生えない、といわれていた。他の銀行に比べ、格段にえげつない、と。
私は当時、不動産業界にいた。住友銀行ほどではないにしろ、狂乱のただ中にいた。
今考えればどうみてもおかしいことが、誰もおかしいと思わず、通用した時代だ。
私自身は、著者とは違い、会社の中で「神経が麻痺して、まともな思考ができなくなった」人間の一人だった。

「住友銀行で働いているような、一人ひとりはそれなりの見識を持っている(はずの)立派な社会人が、なぜ、集団になるとあんなにも愚かなことに、過労死する人を出してまで邁進する」のか。

著者は、日本社会が「暴走」を繰り返してきたことを指摘し、いかにすれば暴走から離脱できるかの問題を考えたい、と述べる。
本書で展開している「東大話法」は、その研究の中の一考察である。

「ネーミング」が目新しいし、これはこれで結構だ。
だが、私は、「どうも、近づかない方がよさそう」。

著者は、「ヒトラーとその追随者・支持者がなぜ生まれたのか」という研究に言及し、紹介をしている。
このテーマは、私自身が長く関心を抱き続けていたものだった。
著者の言及は、私の関心の対象と一致している。しかし肝心な部分でズレがある。

著者の引用した沖縄戦死者の遺書を、私は、著者と同じように解釈する。
そして私は、「特攻」の話を読む度に、「自分が日本人であること」が嫌になる。
「特攻の存在を許した日本人」を嫌悪する。
特攻ほど、自分が日本人であることを憎いと思わせるものはない。

かくのごとく、私は「暴走する日本人」に深い嫌悪を抱いているが、著者のように、「日本社会が暴走をしなくなる」希望を持っていない。
過去、「同じことを、繰り返している」のだから、これは性というもので、どうしようもあるまい。

私自身が、狂った時代の中に置かれれば、巻き込まれ、自分が狂っていることに気づかず突き進む人間の一人なのである。
著者は、自分の職場の人間が狂っていると気づき、離れた。
私には、それができなかった。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。