南の国の太陽、空の色の獅子

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昨年の11・12月もアップ数が少ない。ふと、何を書いたのだろうと読み返して、あ、となったことがあったので書く。

東京国立近代美術館は、現在、所蔵作品展で、「何かがおこってる:1907-1945の軌跡」と題した特集を開催している。
私は、この企画に、単に「過去」を描くのではなく、「現在の」日本社会の類似性を指摘し警告する意図を感じた。

展示された作品そのものは、従来と同じものだ。しかし、各セクションに掲げられたプレートに記載されたタイトルと説明文が、これまでの私の記憶にはない、「衝撃的」といっていいものだった。

各セクションのタイトルは、
「坂の上の雲」「わたしと太陽」「ふるさと創生」「地震のあとで」「白昼夢」「遠くで銃声」「頭上の火の粉」「誰か故郷を想わざる」

説明文の内容は、うんとはしょると、
日露戦争後、大正デモクラシーによって個人の意識が高まるが、関東大震災後、徐々に軍国主義が台頭していく。
戦争は、大衆の目には「見えない」所で始まる。多くの国民が気づぬうちに、進んでいく。国民の多くが気づいたときには遅かった。

例えば、「遠くで銃声」の一部は

三崎亜紀の『となり町戦争』(2005年)という小説があります。
自分の町ととなり町が戦争状態に入ったと報じられる。
しかし日常は平穏そのもの。ただ広報誌掲載の戦死者数だけがどんどん増えて行く―という筋書きです。

1937(昭和12)年7月、日中戦争が始まりました。
一方でこの夏には、「別れのブルース」「アマポーラ」(淡谷のり子)、「アロハオエ」(灰田勝彦)といったヒット曲がリリースされています。
3年後の1940(昭和15)年には、東京オリンピックの開催も予定されていました(1938年、日中戦争のため中止が決定され、幻のオリンピックとなりました)。
見えないところで統制が進み、近所の誰かれが出征する。
しかし日々の暮らしは穏やかに続き、遠くの戦争の実感はなかなか得られない。
当時を生きた多くの人々が、もしかしたらこんな風に感じていたかも知れません。


「現在の日本社会に、敗戦前との共通性を想起する」発想・論調は、暫く前から流布している。近美の企画担当者が、その意識を持って、今回の企画を作ったという想像に無理はないのではないか。

最後のセクション「誰か故郷を想わざる」の一節は

1920年代から40年代にかけての日本画を振り返ると、若手を中心に、モダニズムから抽象表現へと至る西洋の新しい表現が実践される一方で、実に多くの画家たちが、日本の美しい自然を描き出していたことに気付きます。
富士山、海、農村、桜や菊の咲く温雅な風土……。
それらは、霧島の歌った「幼馴染のあの山この川、あゝ誰か故郷を想わざる」という歌詞にぴったりとはまるように見えて、その実は、国民全体の故郷たる国土の象徴として描かれ、国体を美化するはたらきを担ったものでした。


この説明は、「きれいな絵ね」と、脳天気に絵を愛でようとした観客に、冷や水を浴びせる。

これを読まされた後に、川合玉堂の代表作のひとつ「彩雨」の前に行けば、

自然美とともに暮らす人々の生活を情感豊かに描き続けた玉堂の作品は、「日本八景」ブームで作り出された「故郷」以上に、見る人の心に美しい祖国の姿を刻みつけたに違いありません。
この作品が発表されたのは、1940(昭和15)年の起元2600年奉祝美術展。
神武天皇の即位から2600年にあたるとされたこの年、さまざまなイベントが開かれ、それらが終了する頃、大政翼賛会が結成されました。


「彩雨」に、こんな解説文を付されたことが、いまだかつてあっただろうか?

この解説文は、たとえ芸術家自身に時の政権の政策に積極的に加担する意思はなかったとしても、「利用される」ことはありうる、そう言っているのではないか。

私の解釈は、外れているのかもしれない。
しかし、私には、この特集の「何かがおこってる」という「現在進行形」の時制のタイトルが、「過去のはなしだけをしてるんじゃないよ」と告げているように思える。

東京国立近代美術館は、1年前、「1950年代」の日本の社会を描く特集を組んだ。
私は、あれに強い衝撃を受け、ここに記した。

1年前に書いた文章の一部を、今日、繰り返して記す。

「敗北を抱きしめて」のエピローグで、ダワーはこう記した。
ひとつの時代が、1920年台後半に始まり、1989年に実質的に終わった。
「西欧に追いつくという目標をひたすら追求してきた日本が、経済と技術では目標を達成したものの、新しい進路を描くだけの構想力と柔軟性に欠けていることが誰の目にも明らかになった瞬間であった」

「日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義化という目標も今や捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入ってはいない」




●Trek Factory Racing

12/9から、スペイン、ベニドームでキャンプを行っている。
公式のFacebookはちょびちょび情報を発信しているがインタビュー記事が出るのは週末のプレスデー後。
写真は、Dan Mcdonoghが複数掲載。
https://twitter.com/danmcdonogh



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「下村観山展」(横浜美術館)へ行く前に訪問した三渓園にて


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アクセスしてくださる方々に、新年のご挨拶を申し上げます。

旧年中はどうも有難うございました。

明るい年になりますことを。

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1/2、恵比寿ガーデンプレイスにて

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忌野清志郎
「目覚まし時計は歌う(選挙ソング)」

坂本龍一から政治家のみなさんへ
http://skmtsocial.tumblr.com/

清志郎が教授にキスしてたの、「い・け・な・いルージュマジック」でしたっけ。

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9/30(日)、接近してくる台風17号を気にしつつ、代々木体育館へイオンカップを観戦しに行ってきた。
外の様子を偵察しながら、全スケジュール終了後の17時半に撤収して、無事帰宅。
途中で帰った観客も多かった。万が一を考えてだろう。地下鉄は動くが、地上の路線は強風で止まる。

新体操の現地観戦は、初めてである。
・快適
いまや手に負えない狂乱状態になってしまったフィギュアスケート観戦と異なり、ゆったりのんびり、楽ちん。
あちらが鎮まるまで、代わりにこちらに通おうかしら。

・恐れ入りました
イオンカップの存在はとうの昔から知っていたが、五輪・世界選手権チャンピオンが必ず参戦してきたハイレベルの大会とは、今の今まで知らなかった。
チャンピオン不在の大会は、18年目にして初めてだそうで、恐れ入った。

毎年東京体育館で開催されていたことも知らなかった。
フィギュアスケートのNHK杯のように全国各地持ち回りではないのだ。東京在住者にとっては実に好都合。
(今年は、東京体育館が改修工事中なので、代々木で開催したのだろう)

・盛り沢山
大会公式サイトにはタイムスケジュールの詳細が掲載されておらず、ほとんど何も知らないまま(お気楽に)出掛けたおかげで、予想していなかったものを色々見られ、得をした気分で、非常に満足した。

最終日の日曜は、クラブ対抗戦の準決勝・決勝、と思っていたら、それに加えて個人総合戦もあって、クラブ対抗戦には残らなかった上位選手の演技も行われた。
競技終了後には、エキシビジョン。
団体日本代表チーム(フェアリー・ジャパン)の他に、アンナ・ベッソノワ、優勝者のドミトリエワ。

日本代表チームは、競技プログラムを披露した。
団体競技は、会場で見ると、非常に映える。世界トップレベルの他国の演技も見てみたくなるが、残念ながら日本国内では機会はない。
ベッソノワの登場には、ちょっと驚いた。演技はフープで、現役を引退した選手ならこういう感じか、と思わせるもの。

次のドミトリエワの演技内容が、予想外だった。
フロアに持ってきたのは、イスとマイク。手具はなし。髪をまとめ上げず、ポニーテールで流し、衣装は長めのスカートのついたもの。
フィギュアスケートのEXと同じ、自由なノリで、ダイナミックに踊り、得意のピポットを連発。
背後の席から、「かっこいい」と歓ぶ女の子たちの声が聞こえてきた。
そうか、こういうの(演技)があるのか、と初めて知った。

・生の息吹
現地観戦を思い立ったきっかけは、今夏のロンドン五輪の放送を見て、素敵だなと感じたこと。
自分の美意識や好みは、どんどん変化をしている。フィギュアスケートを見る観客は新体操も見るケースが多く、自分もその部類だったが、ここ数年はあまり魅力を感じず、疎くなっていた。
今年、新体操の選手を「美しい」と思ったのは、此方の感覚の変化だろうと思う。

新体操の選手たちから私が感じた美しさは、理想的な身体形状とか気品や情感のある演技とかいったものより、「生の息吹」と呼ぶのが一番近い。現地観戦して、そう思った。

優雅であったり力強かったり、選手たちの個性は様々だし、技術レベルも様々だ。しかし、誰もが放っていたのが、10代から20代初めの女性たちの持つ「強い生命感」だ。その息吹が、昇華された形として示されている。
それが、今の私に心地よく、幸せを感じさせてくれたのではないか、と思う。

・スポーツは現在と未来のものである
チャンピオン・カナエワの演技を生で見たかった気持ちもあったけれど、初観戦の身としては、代わりがドミトリエワで、もう一人も若い選手であったことを歓迎している。
フィギュアスケートと同じ見方で、目を向けるのは、「現在のトップより未来のトップ」。一番楽しいのは、「ジュニアのトップ選手」。
なので、今回「シニア2人・ジュニア1人」というチーム編成で、ジュニア選手たちを見られたのが、とてもよかった。

・日本
日本のジュニア、皆川夏穂さんをまず見て、「日本人も、あちらに負けない体格になってきたわね。(フィギュアスケートがそうだし)」と思ったのだが、その後に登場したウクライナ、ロシアのジュニア選手の姿に、「・・太刀打ちできない」。
この子たちがそのままシニアのトップになるとは限らないし、体型もここから変わるのだが、骨格が、日本人と全く別物にしかみえない。

・化粧
クラブ対抗戦の開始前に、会場の大型ビジョンで、出場選手を顔写真つきで紹介したが、その写真が、みな、すっぴんの、普段の顔。
髪も下ろしているので、競技中の、髪を結い上げ、化粧した顔とは、まるで別人である。
この写真は使わない方がいいような気が・・

連想がひとつ。
浅田真央はメイクを変え、キム・ヨナは電卓をたたく フィギュアスケートの裏側 (朝日新書)」(生島淳/2011)の中で、化粧が勝負に関係する競技は、フィギュアスケートの他に思いつかない、というくだりがあり、「あるじゃない。新体操、シンクロ。新体操の日本代表チームにポーラが公式スポンサーについたとき、美容部員もついたとニュースになったじゃない。日本代表一般に関心を持たない私でも知ってるわよ。この人、これでもスポーツライター?」

著者は、自分では気づかず、他人から指摘された化粧という視点を、面白いと思ったらしいが、私からみれば、スルーしていい点で、ピントが外れていると思った。
この本は、「浅田真央ブーム以前はフィギュアスケートを好きでもなんでもなかった人が、ブームに乗って、知識・情報を一夜漬けで仕入れて、知ったかぶりで本一冊書くとこうなる」例。

・TV放映
テレビ朝日系
10月8日(月 祝)10:30~11:25

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光市母子殺害事件の最高裁の判決文を読んで、出てきた科白。

裁判官の言う「冷酷,残虐にして非人間的な所業」を行った18歳の人間を作ったのは、「大人たち」でしょ。

宮川光治裁判官の反対意見の中には、被告人は「父親の暴力に母親とともにさらされ」「12歳の頃,母親が苦しみ抜いて自殺したことを目撃する」という環境で育った、という文章がある。

そういう環境で育った男なら、若い女性と赤ん坊を虐殺しても何ら不思議はない、と私は思う。

父親から虐待され、母親が自殺したからといって、皆が皆、殺人者にはならない、もっと劣悪な環境で生まれ育っても、まっとうに成長した人間はいくらもいる。人はそう言うのだろう。

でも、もしも彼が、「妻と子を虐待する男」の子として生まれず、親から暴力を受けることなく育っていたなら・・?

子は、親を選べない。
子供を虐待する親たちのニュースを目にするとき、そのことを思い、陰鬱な気分になる。
私は長く、人間の中には「親になる資格のない人間」というものがいる、と考えていた。自分自身も、それに入る。

以前書いたように、私は、自分をいじめる同級生(男)を殺したいと思っていた子供時代を持つ。
いじめを苦に自殺した子供がいたTVニュースを聞いたとき、「いじめたやつは死ぬべきだ」と、本心から思った。
同級生を自殺においやった人間が生き続けることは、許されない。絶対に死ぬべきだ。
この「殺意の正当化」を止めたのは、自分が「子供の時期を終えた」とき、だろうと思う。

残虐性は、人間が生まれ持った本性のうちのひとつで、珍しくもなければ、「非人間的」でもない。
人は、いつの時代も、常に、殺し合いをしてきた。
現代の日本社会では、大多数の人間は、成長する過程で、生来持つ様々な欲望を「制御」することを習い覚え、社会に適応して暮らしていく。
一部の人間が、制御する能力を身につけることに失敗し、社会のルールから外れた行いをする。

私は、大きな問題のない部類の親の子に生まれ、育てられたので、並みのレベルの欲望の制御能力を身に付け、犯罪を犯すことなく暮らしてきた。
虐待されて育っていたら、そうであったかは、わからない。そう思う。


ビデオニュース・ドットコムで、神保氏と宮台氏がこの件を取り上げている。
光市母子殺害事件の最高裁判決をどう評価するか

死刑廃止論議については、またの機会に。