南の国の太陽、空の色の獅子

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コンタドールの件について、ざくっと見渡しても、「同じ意見。私が敢えて(重ねて)書く必要ないわ」となる(日本語で書かれた)意見が見当たらないので、書こうと思う。

(1)コンタドールの主張が、真実なのか嘘なのか、一般ファンには、まだ、判断はできないでしょ?

我々一般人のおかれた状況は、ドーピング事件に対するスタンス(10/17)記述後、今も変わっていない。
本件の関係機関(スペイン自転車連盟、UCI、WADA)の持つ資料は、何も公表されていない。
現在までに我々の耳に届いた情報は、事実の一部分や、誰かの意見や憶測だけである。

コンタドール側の主張する、クレンブテロール陽性の原因は食物汚染であるとする「具体的な根拠」を、私はいまだに、目にしていない。
これを知らなくては、判断はできない。
だから、私が読むことのできる場所に公開されるのを、じっと待ち続けてきた。だが、まだ、出て来ない。

自分かて、現状であれやこれや思うことはある。だが、必須の資料(情報)を未入手の状態で、今回のようなドーピングの有罪・無罪の問題を語ることは不適切、という判断で、腹の中に収めて、黙っていた。
誰かから意見を求められるわけでもないのだから、黙っていればいいのである。(選手や関係者なら、メディアから聞かれたら、何か言わねばならぬが)

(2)コンタドールの主張が真実であった場合、彼を処罰することは、道理にかなったことか?

自分の考えを先に書くと、道理にかなっていない、と思う。
世の中には、「ルールでは、禁止薬物検出の原因が、パフォーマンス向上目的の所謂ドーピング行為であるか、それ以外の行為であるかの区別をしていない。よって、ルールに則り、罰を課すのが正しい」という意見があるが、自分はこれに与しない。

先入観をとっぱらって、「まっさらな気持ちで」、考えてみてほしい。

ドーピング行為によって能力を向上させ、よりよい戦績を得ようとする選手たちが横行してきた自転車界で、その行為に頼らず、真っ正直に闘ってきた選手を、ずるく卑しい連中といっしょくたに扱い、苦労して得た勝利を奪い、名誉を粉々にすることは、まっとうか?
母国スペイン国内を始め一部の人は、彼を信じ、非運のヒーローとみなしてくれるだろう。だが、世界全体の観点でみれば、彼の名声に、取り返しのつかないダメージを与える。

コンタドールは、復帰した「伝説の王者」ランスをも叩き潰した、当代最強のステージレーサーだ。「ドーピングに手を染めていないとみなせる、初めての偉大なチャンピオン」になりうる選手だった。
その選手を、「ドーピングにより優勝剥奪・出場停止処分を受けた、と歴史に残る」選手にしてしまうのである。

それを、「運が悪かったんだから、しかたないよ」と貴方は言い切るか?

(3)現実との妥協

他方、故意とそうでない場合とを区別しない現行のドーピングの規定にも、理がある。

区別をして、故意でない可能性が高い場合は免責、とすると、ずるい奴等が、偽装して、処罰を逃れる可能性がある。
現行の検出技術は、故意と事故を区別することのできる十分な能力を有していない。
すなわち、ドーピングがいまだに絶えない理由のひとつの「検出技術とドーピング技術のいたちごっこ」が、今回の問題の対処にも影響している。

現行ルールは、「区別をしないことが理想だとは思っていないが、現実には区別ができないので、悪者を取り逃がすより、ごく少数の無実の者の冤罪を生んでも、大勢いる不届き者を一網打尽に処罰しよう。どちらかを選ぶ必要があるから、後者を選ぶ」という発想だと思う。
日本の死刑制度存置論者の論理と同じである。存置論は、「冤罪で無実の人を1人処刑しても、100人の悪人を処刑した方が、社会のためによい」という論理だ。

死刑廃止・存置論争の連想は、今回の事件に対する選手たちの反応の理解の助けになった。
自分は、「選手たちが、コンタドールの主張を信じていたなら、『明日は我が身』という発想を抱かないか?うっかりものを食べられないじゃないか、勘弁してくれ、とうんざりしないか?」
「食べた肉で処罰されるんじゃやってられん、という声が大きく上がらないのは、実は、『コンタドールは、実際は、ナニかやっていたんじゃないか』、すなわち『原因は肉ではない』と、本心では、彼の主張を信じていない選手が多いからか?」と思っていた。

この解釈は、一部には当たっていると思う。しかし、「きっと肉なんだろう」と思いつつ、「運が悪かったな」で止まって、「自分の身にも降りかかるかもしれない」という「ネガティブな」考えに至らないケースもある、と気づいた。
死刑存置派の大多数は、「自分や家族が、ある日突然、冤罪で捕まるかもしれない」という発想を「欠片も」抱いていないであろうからである。
「ごく稀にしか起こらないこと」は、「自分の身にも起こるかも」という発想を呼び起こしにくい。

それが、理不尽なことであろうとも、だ。



2011/01/27 : アンディ・シュレクのメンタリティ」に、一行追記
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