南の国の太陽、空の色の獅子

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■「死刑」(森達也/朝日出版社/2008)



「死刑存置・廃止に関する本を一冊も読んだことのない人」がいたら、「じゃあ、これ読んでみて」と勧められる本。
と、読んでいる最中思っていたが、「最後の20ページ」に、「あ~ら~ら~」となり、勧めるか否か難しいところ。

読み手によっては、影響は少ないのかもしれない。
この本の持つ一番の価値は、廃止の意見を「自信を持って、確定的に主張することのできない」著者が、様々な人にインタビューし、様々なことを調べ、ぐるぐると迷い、揺れ動く「過程」にある、と思う。

死刑というテーマは、著者くらい、真摯に考えぬき、迷うもので、一冊の本も読まず、知識をほとんど持たぬまま、簡単に結論を出すものではない。
そのことが読者に伝わり、著者のように「迷う」きっかけになれば、結論がどこにいっても(著者と一致してもしなくても、結論が出なくても)、本書の価値はあるといっていいのかもしれない。

そういう評価も成立すると思う。
しかし、著者が廃止の結論を明確に持ち、主張する以上、そこに「明らかな欠点(つっこみどころ)」があるのは、廃止派の側からみると、「痛い」。

著者は、存置派の拠り所は、「論理」ではなく、「情緒」、と述べる。
「存置を求める心情の根底には不安や恐怖がある。それが強い権威や安定を求めている」

「解釈のひとつとして」よいと思う。
この解釈を前提とし、「情緒」に目を向け、自分が「存置派への反発」か「感染」どちらになるか見極めたい、それもよい。
しかし、そうであるなら、著者は、光市母子殺害事件の被告人だけでなく、被害者遺族の本村さんにも会うべきだった。

本村さんに会わず、被告人とだけ会って、彼と会ったから、彼を救いたい、という主張は、説得力がなさすぎる。
直接会って、話をすれば、人は情が移る。今更言わなくても、判りきったことだ。
片方にしか会わず、会った側に肩入れするのは、文字通りの片手落ちだ。

被告人を生かしたいという主張は、本村さんにも会い、本村さんの目を見て、思いを正面から受け止めて、その上で行なうべきだった。
そうしなかった著者は、「自分に都合の悪いものからは、目を逸らした」という批判に値する。

著者は、これまでの人生で、特定の誰かを「殺したい」という感情を、一度も持ったことがないのだろうか。
私は、ある。

小学生の頃、自分をいじめる同級生を、殺したかった。
殺意の記憶は、数年後に、TVのニュースで、いじめを苦にした自殺の報道を聞いたとき、「いじめた奴は死ぬべきだ。絶対に死ぬべきだ」と怒りに震えながら断言した自分自身の姿として、鮮明に残っている。
その場にいた母親は、私の尋常でない激昂に驚いたであろうが、何も言わなかったのは、私がかつていじめられていたことを知っていたからだろう。

私は、自分の殺意を、今でも否定しない。
同級生を自殺に追いやったいじめっ子は死ぬべきという感情も、否定しない。

「人を殺してはいけない」という絶対のテーゼなぞは、ない。

そうとは思わない人は、きっと、他人に殺意を持ったことも、自殺を本気で考えたことも、それでも子供の頃から「自分が死ぬこと」を考えると気が狂いそうになるほどの恐怖に苛まれるために、死ぬことができなかった、という経験も、したことがないのだろう。

死刑廃止を主張する人は、人間が、自分に害をもたらした他者を決して許すことができない、深い怨念を抱くことがあることを直視する「覚悟」が必要だと思う。

同時に、死刑存続を主張する人は、「冤罪(無実)で死刑になる人がいても、やむをえない」と断言し、自分や家族が、冤罪で死刑になるリスクを背負う「覚悟」が必要だと思う。

私は、この本を読んだことが示す通り、現在、死刑廃止派である。
そうなったのは、最初は、「論理」による。どこからどう考えても、論理では、廃止に分がある。
しかし、決め手になるのは実は、論理ではなく、他のものではないか、という思いが頭の隅にある。

私の中にある、死刑を否定する心理の源泉が何なのか、その正体は、自分でもまだ判らない。
「人を殺してはいけない」というテーゼは絶対ではない、と口では言いながら、「国家権力が人を殺すことに対する忌避感情」(「お上」を信用しない意識)が奥深く巣食い、逃れられないのか。

それとも、「悪人を殺せ!」と熱狂し処刑を望む群衆に対する嫌悪感か。
しかし、これは、「本当に嫌」なのか、そうではなく、「自分の内にあるが、醜いとみなしている感情なので、自分で否定している」のか。

己に対する問いかけは、これからも、折々にし続けていくだろう。

*追記

本書の中で、自分が愕然となった箇所。P.56~57

「見せしめのための死刑を望む気持ちが、やっぱり人間すべての意識の奥にあるのでしょうか」
(中略)
「・・もしも東京ドームで公開処刑が行われるとしたら、鈴木さんは見に行く?」
僕のこの質問に、鈴木は一瞬だけ考え込んだ。たぶんそんな状況における自分の心理をシミュレーションしたのだろう。数秒後に鈴木は言った。
「私は、・・・確実に行くと思います」
ああそう、とうなずきながら、僕はどっちだろうと考える。東京ドームの処刑ショー。少なくとも、喜色満面で行くことはないとは思うけれど。


(鈴木:女性編集者)

アンケートをとったら、どういう結果が出るのだろうか。



*ところで
自転車ロードレースに関する記述に対して、 読んでいて気分が悪くなった、という反応があった。
「このブログの読み手はそういう人たちだったのか」と、公開する意欲が減退したため、9/2以降書いたものはクローズしている。
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2010/09/08 22:35  #[ 編集]

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2010/09/09 01:21  #[ 編集]

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2010/09/09 10:29  #[ 編集]


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