南の国の太陽、空の色の獅子

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生物がものを食べると、食物を構成する分子は、高速度で身体の構成分子の中に入り込み、同時に、身体の分子は分解されて、外へ出ていく。
生体を構成している分子は、絶え間なく、入れ替わり続けている。

新しいものが古いものと入れ替わるのは、皮膚や爪や毛髪だけではなく、身体の内部のあらゆる部位、一見固定的に見える骨や歯すらも、分子のレベルでは、絶え間なく分解と合成が繰り返され、置き換えられている。

絶え間なく分解と再構成を繰り返す中で一定の状態を保っている、それが生きているということ。

・・という話をしている本



福岡伸一は、あるときTVに出演しているのをみかけ、面白いことを喋っているな、と思い、著作を調べると、見覚えのある上記の本の著者だった。
遅ればせながらもいいところだが、出版時に興味を持たなかったから仕方ない。

「生物と無生物のあいだ」を先に読み、ルドルフ・シェーンハイマーの「動的平衡論」を説明する記述を読んだとき、自分はすぐ、方丈記を連想した。
「ゆく川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」
20世紀のユダヤ人科学者が述べたことを、日本人はとうの昔に気づいていたんだよなあ、と思ったら、「もう牛を食べても安心か」に、方丈記はちゃんと言及されていた。

人間の頭が考えることは、方法論が違っても、ゴールが近いところにあったりするわけだ。



「もう牛を食べても安心か」の中で、著者は、動的平衡論から、「食べること」の「本質的な意味」を述べ、狂牛病対策に言及し、更に「地球環境全体は、平衡点=バランスを求めている」という観点で、人間の活動を評する。

この考え自体は、面白い。但し、書物全体の構成のバランスの点で、環境問題への意見は、説得力が弱いと思った。
思いつきはいいが、具体的でミクロの話から、生命観や環境論といった抽象的・哲学的な主張に進むときは、かなり高度な論理と文章術が必要だ。

臓器移植は「生物学的に非常に蛮行」で、「究極のカンニバリズム」という箇所は、主張する内容に価値があるだけに、文章表現の稚拙さが勿体ない。
臓器移植肯定派の根拠の大部分は「感情」であって、「感情」に「哲学的思考」で対抗するときは、最高度のテクニックを用いて文章を展開しても尚、力を持たないのが現実なのである。
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