南の国の太陽、空の色の獅子

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■「クリーンで質が高いこと」>「4回転ジャンプへの挑戦」(ISUの指針)

4回転論争(もしくは採点法論議)については、延々と書くつもりだったが、「結論」がバキッと音をたてて見えてしまったので、終わりでいいか、という気分になった。

書店に行くと、真央ちゃんが表紙の雑誌やムックが複数並んでいて、パラパラと見た。中に、平松純子さんによる「審判は何をよしとするか、採点の基準」が書かれたページがあった。
五輪前に出版された初心者向け解説ムックで、五輪が終了した今読むと、五輪の結果は、そこに書かれたことが「そっくりそのまま反映」されたものだった。

「審判は、『クリーンで質の高いもの』を見たいのです」

「審判は、見たい」
この「言い方」は凄い、と思った。有無を言わさず、「唯一つの価値観」を断言しているからである。

個別の要素に対する具体的な言及がされ、ジャンプについては、「4回転に挑戦するだけではだめで、質が求められる」「連続ジャンプは2つめが高いものがよい」など。

ここに書かれた指針の通りの演技をやった選手が金メダルで、やらなかった選手が銀メダル、であった。
あまりに一言一句当てはまるので、これを読むと、採点ルールの運用がおかしいという文句は言う余地がない。平松さんが示した指針の通りを運用した、といっていい。
笑い出しそうになってしまった。(意味は、諦めの笑い)

平松さんは、ISUのフィギュア技術委員で、採点法を策定する人間である。平松さんがこのように考えて、明言・公言するのであれば、「今回の五輪は、あの結果になるのが当然」だった。

プルシェンコは、何をしたか。
ISUの技術委員に対して、「あんたらのやってることは、根本的におかしい」と楯ついたのである。
「今、あんたらが、フィギュアスケートの演技はかくあるべき、と我々選手に向かって言ってることは間違ってる」と。

技術委員が提示した「フィギュアスケート競技で目指すべき姿」と、その理念に基づいて策定されたルールに従って採点する審判たちに、敬意を払うどころか、反逆した。

点数を決めるのは、審判である。五輪の金メダリストを決めるのは、審判。
彼は、「負けるべくして負けた」のだ。
「審判が、彼に金メダルを与える」ことが起こりうると考えた自分の、愚かさよ。
五輪前に、まったく何も知らないわけではなかった。だが、物事の表面しか見ず、「いま起こっていることはどういうことか」、「本質」まで考えが及ばなかった。

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新採点法成立のきっかけは、ソルトレイク五輪での、各国スケート連盟の審判への圧力による採点不正疑惑であり、新採点法が目的としたのは、「外部から審判に圧力がかかるリスクを減らす」システムだった。

演技を要素に分解して、技ひとつひとつの点数をあらかじめ決めておき、その合計で判定する、という方法は、「外部から圧力を受けた審判が操作できる余地」をなるべく減らすための方法として有効、と考えられたため、導入された。

しかし、技に与える基礎点や、出来に与える加算点の具体的数値を決めるとき、「求める演技の質を、現在の方向性から変更しよう」という意向が働き、具現化した。

点数を決めた人間たちは、この機会に、男子Sにおける「より難しいジャンプ」という方向へ向かっていた船の舵を、180度切って、「ジャンプ以外の要素を重視する」方向へ、船の向かう先を変えたのだ。

なぜそうしたのか。
この答は、すぐに思いつくものがある。誰かの意見を読んだのではなく、自分個人の推測の域を出ないが、すんなり納得できること。
「彼等が選手をやっていた時代は、そうだった」から。

現在の事象を理解するとき、過去を振り返ることは役に立つ。
フィギュアスケートの発祥は、「氷の上に図形を描くこと」である。図形を描く滑走(コンパルソリー)は、1896年の第1回世界選手権から必須課題で、廃止されたのは、1990年。フィギュアスケート114年の歴史の中で、94年間続いた。

コンパルソリーが廃止されたのは、観客から見て、面白味がなく、TV放映に適さないから、という「商業的な」理由による。

「商業的な理由」によるコンパルソリーの廃止は、選手のスケートの質に、変化をもたらした。
コンパルソリーがあった時代は、選手たちは全員、「正確な8の字を描く」練習に長い時間を費やした。
1990年より後にスケートを始めた選手たちは、その練習をやらない。代わりに、男子選手たちは、ジャンプの練習に熱心に取り組んだ。

私は、まったくの素人観客で、選手たちのスケートの上手い下手を意見する見識を持たない。しかし、コンパルソリーの練習を何時間もやった時代の選手と、まったくやらない現在の選手とでは、スケーティングの技術レベルが違う、ということは判る。
一定年齢以上の元選手・関係者からみれば、今の選手は、ジャンプばかりに熱心で、スケーティングが下手になった、と思うだろう、という想像もできる。

ジャンプが悪いとはいわない。難しいジャンプはそれとして素晴らしい。しかし、今のレベルまできたら、回転数を増やすのは、そろそろいいじゃないか。フィギュアスケートが本来重視した価値に、立ち帰ってくれないか?

ISUのおじさんおばさんたち(といきなり砕いて書く)はそう考えたのではないだろうか、と解釈するなら、それなりに納得できると思う。

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上記の理屈に辿りつくまでには、けっこうかかった。
自分がフィギュアスケートを見始めたのは、伊藤みどりさんとペトレンコの時代で、ジャンプ合戦時代にどんぴしゃ当たる。
よって、男は「跳んでなんぼ」であり、「4回転を跳ぶ者が王者」に決まっている。

プルシェンコの「王者たるものは4回転を跳ぶべき」発言に否定的な感想を持った視聴者が多数存在することを知った最初、驚いた。
過去約20年間、男子Sの価値観は、こうだったからである。彼が勝手に思い込んだ、個人の趣味ではない。
「審判は、当代最高難易度のジャンプをプログラムに入れる選手を、入れない選手より上につけた」時代が20年続いたからである。

4回転なしのプログラムを、どんなにクリーンに滑っても、4回転を入れた選手より高く評価されることはなかった。
4回転を入れることが、チャンピオン争いの土俵に上がる最低基準であり、他の要素のレベルは、「その後に」評価される基準だった。

プルシェンコの主張を理解しないのは、「ジャンプ合戦時代を知らず、新採点法の感覚しか持たない」若い人々か。
自分と同じ世代にもいるが、こちらは、フィギュアスケートを継続して熱心に見ておらず、「過ぎたことを覚えていない」部類だろうか?なにせ、真央ちゃん出現以前は、フィギュアスケートは明らかに「マイナー」なジャンルだったから、不思議ないか。

そうであるなら、敢えてはっきり言いたいと思うが、プルシェンコの主張は、「彼が競技をやってきた約20年間、審判が示した採点の基準」である。
審判の指針を無視して彼個人が固執した「理想」でも「信念」でもない。

「20年間、『これをすれば高く評価します』と示され、それに従って努力してきた価値基準を、20年たって、『これからは、違います。評価しません』とひっくり返されたら、はいそうですか、とあっさり受け入れるか?おかしいじゃないか?20年間、こうだと示されてきたことだぞ?」

(続く)
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