南の国の太陽、空の色の獅子

Category :  展覧会
tag : 
4/29(祝) 午後2時 東博に入場、8時退出。

<阿修羅展>
・乾闥婆と五部浄


八部衆を端から一人ずつ見てゆき、ひとつの像の前で、「あっ」となった。
獅子の冠を被り、眉を寄せ、目をきつくとじている少年。

吉村貞二が「古仏の微笑と悲しみ」で、「獅子冠の聖少年」と書いた、乾闥婆。

私が記憶しているのは、獅子と太陽の関係を述べた箇所で、乾闥婆の描写と解釈は、はっきりと覚えていない。
だが、目を閉じたこの少年の表情には、私の足を止めさせるものがあった。
前にさしだされた両手は、あてどなく宙に浮き、まっすぐの両足は、その場に立ちつくしている。

乾闥婆と同種の雰囲気を、五部浄も持っていた。
五部浄が被るのは、象。肩から上しか残っていない少年は、室のつきあたりにひとつ置かれたガラスケースの中から、目を見開き、まっすぐに此方をみつめていた。
隣には腕の一部がある。五体が完全な形の像よりも、この姿の方が強い印象を放つ。

振り返って見ると、八部衆には少年の面を持つ像が複数ある。こういう少年のおもざしの仏像が他にあるだろうか?と考えると、すぐには思いつかない。仏像の多くは、男とも女ともいえないおもざしだ。どちらかの性別にみえるとき、年齢はもっと上のことが多い。
八部衆のように、「現実の人間の少年の顔そのまま」を映した、広く知られた仏像はないような気がする。

仏像の表情がどう見えるかは、見る此方の精神の反映だと思っている。同じものが、見る側の心持ちによって、苦悩にも悟りにも怒りにも見える。慟哭にも微笑みにも見える。

美術工芸品(芸術作品)を見るときの心得は、製作者の心情を推し量ること、と博物館の人は言う。学問的にはそうだろう。だが自分は屡、その観点を無視し、自分の内面が映し出されるにまかせ、それを自覚しながら、作品を見る。

・阿修羅

阿修羅の顔には、少年だけでなく女性の顔が同居する。その点が、他の八部衆と違う。もうひとつ、他の八部衆が持たず、阿修羅だけが持つのが、6本の腕。
蟹の足のような6本の長い腕が作り出す造形美は特異である。

阿修羅の室で、姿が目に入った最初に、こう思った。「スターみたい」
照明が、それまでの室とは異なり、暗闇の中に像が浮かび上がるように設えてある。色と輝きが幻想的で、実物感が薄い。
照明の威力が絶大であることは、認識している。まるで舞台演出のようで、ここまで作為的な演出もどうなのかね、という気分もちょっと湧いた。
魅力的にみえるのは確かで、おかげで自分もつらつらと眺めたから、「これはこれでOK」と否定はしないが。

会場入りした6時20分頃はまだ人が多かったが、時間が経つにつれ減ってゆき、「蛍の光」が流れ始めたとき、阿修羅の周りにいるのは20人程度であった。

RIMG2105 (2)
阿修羅展会場に行く前に休憩していた法隆寺宝物館からの光景。
正面が表慶館。入場制限の続く平成館前とはうってかわった静けさ。


スポンサーサイト

コメント


この記事に対するコメントの投稿
















この記事に対するトラックバック

トラックバックURL
http://leonazul.blog87.fc2.com/tb.php/267-eb82e584
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)