南の国の太陽、空の色の獅子

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先月、図書館に行ったとき、筑紫哲也の手記と併せ、共にがんを患っている立花隆と鳥越俊太郎の記事(手記・対談)を、文芸春秋で読んだ。
このとき、自分が軽いショックを受けたのは、「名だたるジャーナリストであるこの人たちですら、『自分自身のがん』に関しては、客観性を見失うのか」という点だった。


がんに関してある程度の知識を持っていれば、治療の経過の記述を読むと、「どのくらい進行していて、医療側が、治癒の可能性・余命を、どのくらいと見込んでいるか」の推測ができる。
この推測は、専門知識を持たない素人にも難しくない。というのは、「このステージ(進行状態)に対してはこういう対応」という共通のパターンがあるため、医療側の対応から「逆算」で、進行の程度を判断することができるからだ。
がんは「進行性」の病気で、かつ、進行スピードが非常に速い。これががんの特質だ。だから、「ガンと共に生きる」ことは、不可能な行為ではないが、10年20年といった歳月は見込めない。
がんに関するまっとうな本を4~5冊読めば、この認識を得られる。

けれども、この「まっとうな本を4~5冊読む」ことをする人は、世間の中のごく一部に過ぎない。多くの場合、がんに関する本を読もうとするのは、自分自身ががんに罹ってからだ。健康なときには読まない。
「家族や親しい人が罹ったとき」が、読む動機としてあるが、このケースでは読まない人も多い。

更に、沢山の本を読んでも、患者は、医療側及び第三者と同一の認識を持つことが難しいことを、筑紫哲也の例が示している。

筑紫哲也は、発病後、がんに関する大量の本を読み、治療法について納得するまで医者を質問攻めにしていたという。
本を漁れば、判るはずなのだ。自分のがんは、発見されたときすでに治癒の見込みのないレベルまで進行していた。さすれば、人生の終わりは遠くない、と。
化学療法で一旦症状が軽くなっても、一時的なものに過ぎず、再び進行することは決まりきっていた。
それなのに、筑紫哲也は、悪化が再開したとき、「治療でほぼ治ったというところまでいった」と思っていたので、最初の告知のときより、衝撃が大きかった、と記した。

「5年生存率」は、見通しの説明として医療側が用いる表現である。
「5年生存率20~25%」
この言葉をどう受け取るかは、人によって様々だ。

鳥越俊太郎は、直腸がんの最初の手術の2週間後の検査時点では、転移が認められなかったので、ステージ2(数字が少ない方が初期段階)と診断されたが、8か月後に肺への転移が見つかり、「実際は、手術時点でステージ4だった」と修正された。
ステージ4は、5年生存率20~25%で、現在、最初の手術から3年経った。だから、「あと2年がんばれば、20~25%の中に入れる」
今年1月発売の文芸春秋の対談で鳥越氏が述べた内容と、セリフである。

自分は、医療側のいう「5年生存率20~25%」は、「あなたのがんは、同程度まで進んだ患者100人のうち75~80人は、5年経つ前に死ぬ、という段階です」という意味と受け取っている。
自分が、第三者として聞けば、「がんは、もはや除去することはできないレベルまで進行している。余命は、進行スピードに多少の個人差があるから、幅がある。5年もありうるが、1年の可能性もある。そして、基本的に完治が見込めないから、うまくがんを抑えこめる(大人しくして、進行しない)期間があったとしても、治療の副作用で死に至る可能性もある。運がよくても、この先10年長らえる見込みは持たない方がいい。何事にも例外があるから、可能性がゼロではないが、数値は低い」

筑紫哲也も、発病する前に知識を得ていれば、私と同様の認識を持ったのかもしれない、と思う。
同時に、こうも思う。自分は、今はがんを患っていないから、こう考えるが、いざ自分が告知されたら、それ以前とはコロッと変わるのかもしれない。
生に対する執着が芽生え、客観的な認識なぞ消え失せ、奇跡を待ちたいと思うのかもしれない。自分が「生き延びる僅かな例外の部類」に入れるかもしれない、と希望を持ち、怪しげな治療法に縋るかもしれない。

どうなるかは、そのときにならないとわからない。今、どれほど考えても、実際に死に直面したとき、自分がどう感じ考えるかは判らぬ。
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