南の国の太陽、空の色の獅子

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昨秋、大琳派展の会場で、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に心奪われた。

非常に充実した展覧会で、惹かれるものは多数あったが、最も強い印象を受けたのは、宗達下絵・光悦筆のこれだった。
私は宗達も光悦も、まだ「好き」な部類には入れていない。けれども、この作品から立ち昇る魅力は、えもいえぬものがあった。
下絵と書とがこれほど絶妙に調和していると感じたものを見たのは初めてだ。
書によって下絵が輝きを増し、下絵によって書が艶めく。
なんといえばいいのだろう、あでやかで、気品がある、とでもいうのか。

「嵯峨野明月記」(辻邦生)が、宗達と光悦、そして角倉与一の3人の物語であることは、展覧会に行く前に予習として読んだ本「もっと知りたい俵屋宗達―生涯と作品」で知った。
そのとき、「これを『読む時』がついに来たか」と思った。
辻邦生は、私の若い頃、好きな作家のひとりだった。本棚には辻の短編集の文庫本がからりと並んでいた。物語の舞台になるヨーロッパの情景の描き方が好きで、そして文章が好きだった。
「文章」を私が最も好んだ作家は太宰治で、次が堀辰雄と辻邦生だった。
しかし、歴史上の人物を主人公にした辻の長編には興味がなく、その部類には手を出さなかった。ゆえに、「嵯峨野明月記」も読まなかった。

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この小説の読み方は其々にあると思う。
「宗達と光琳の芸術の解釈のひとつ」を示す。そういう読み方をしてもよかろう。
著者は、そのつもりはなく(この真偽は、調べれば多分判る。気がのれば調べてみる)、想像力を駆使して作り上げた人間像であったとしても、「彼等の遺した作品が、小説家にその想像を呼び起した」のだ。

宗達に関しては「芸術論」に止まるが、光悦に関しては、芸術のみならず、哲学・思想に至っている。彼の芸術の背後にはこういう思想がある、という主張とみれば、芸術論に含まれるといってもいいのかもしれぬが。

小説で描かれる光悦の至る境地は、自分の目には、仏教、明確にいえば「禅宗で述べられる悟り」にみえる。「禅そのもの」にみえる独白部分には、ここまで「そのまんま」というのは「小説として」いいのかな?という感もちょっと起こる。

この疑問は、「西行花伝」など辻の他の小説を読むと解決するのかもしれない。但し、そちらへ手を伸ばすより、今のところ絵画や歴史、仏教の本を読む方が先になりそうだ。

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「嵯峨野明月記」をするすると読めたのは、宗達・光琳の作品を見てきたばかりで、言及される作品を頭の中で思い描くことができたことの他に、登場する「京都の地名」からもまた、易々と情景を描くことができたからだった。
京都の地名は、私に、豊かで美しい懐古を呼び起こす。鷹が峰にも行った。行ったときの自分の目的は紅葉で、光悦ではなかったが、今、「ああそうか、あそこか」と気付く。

夜通し絵を書き続け、望むものに届かず惑い悩む宗達が、夜明けの空の変遷を見て、内なる真実に気づくシーンがある。
京都で見る太陽は、東山から昇る。
「東山の稜線のうえが水のように白く澄んで、幾つかの雲が流れていた」

東山の稜線。
京都で、私が最も美しいと思い、好んだ風景は、岡崎公園から見る東山だった。
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