南の国の太陽、空の色の獅子

Category :  自転車
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なぜドーピングは悪なのか。よく挙げられる理由は公平性の確保、選手の健康への配慮などです。いずれも大切なことですが、いくらでも突っ込めてしまうのも確かです。
<中略>
ドーピングとは、その定義、規制する意味も含め、決して簡単な概念ではありません。スポーツの根底に関わる問題です。
(p166)


栗村修の100倍楽しむ! サイクルロードレース観戦術」の中の、出来がよくない、と評したドーピングの章の一節。

栗村氏は、個人の感情として、明確にドーピングに反対している。
それなのに、その論拠を、他者に対して明確に示すことができない。

私に言わせれば、これはよろしくない。
第三者に意見を聞いてもよし、とことん考えぬいて、答をみつけるものだと思う。

確かに、「なぜドーピングはダメなのか」の回答を作るのは、易しいとはいえない。
この先も、論争は続いていくだろう。

しかし、全員を論破することはできなくとも、ある程度のレベルの主張は可能ではないか。

試みてみよう。

ドーピングは、自転車RRだけではなく、スポーツ界全体の問題である。
「スポーツ界全体」の観点において、「ドーピングは規制する」という価値判断に、世界的な合意がなされている。
「ドーピング禁止に疑問を抱く自転車RRファン」は、「自転車RR界」という狭い視野に留まって、「広い視野」を欠く、といわざるをえない。

「自転車RRのプロチームという範囲」に限定するならば、「公平性の確保」も「選手の健康への配慮」も、ドーピングを禁止する決定的な論拠にはならないので、突っ込まれると窮するのは当たり前である。

自転車RR界がドーピング規制をする必要があるのは、自らを「スポーツ」の範疇に入れているから、である。
「スポーツ」の範疇に留まることを選ぶなら、アンチドーピングという価値基準に従う必要がある。

ドーピングを解禁することは、「スポーツであることを止めて」、「ショー」の範疇に入ることを意味する。
実際、「ツール・ド・フランス」という一イベントをみれば、「観光+見世物」のイベントとして成立しそうなので、主催者ASOは、それでも構わないのかもしれない。

といっても、F1におけるバーニー・エクレストンのような人物を持ったことがなく、各国自転車連盟の関与が増した現在の自転車RR界に、「独立した興行システム」の創設を想定するのは、非現実的な話だ。

スポーツ界全体がドーピングを禁止することに、異論はあるだろうか。
念のため記す。

もし、現在のドーピング規制をなくしたならどうなるか。
世界には「五輪のメダルを欲しい」「世界一になりたい」という欲望を持つ人々が満ち溢れているので、ドーピング技術の競争が激化するだろう。
冷戦時代、東側諸国が国家単位で励んだことは、記憶に新しい。現代は、医薬品業界・医療技術業界のグローバル企業の莫大な金が動くことになる。

その結果、五輪の陸上競技や水泳などの記録競技では、劇的に肉体改造をした選手たちが、世界新記録を次々塗り替えていく。
さて。ここで質問。
これらのドーピング技術による世界新記録を、価値がある、と人々はみなすだろうか?

五輪がドーピング技術戦争と化したとき、現在のような高い価値を保持することが可能だろうか?

もう一点、指摘する。
こちらの方が重要だ。

スポーツはほぼすべて、幼年・少年期から始める。
「ドーピングは悪である」という規範を一切与えないならば、子供のうちからドーピングに染まることは目に見えている。

「青少年のモラルと健康」の観点で、ドーピングは「悪」のレッテルを貼る必要のある行為である。

自転車RRに戻る。

ドーピング擁護・解禁派の指摘に多いのは、「制裁(処分)の不公平さ・不合理さ」「検査の精度の低さ」といった点である。
これらには、私自身もかねてから大いに不満を抱いてきたから、感情としては理解する。

しかし、これらは、「規則の詳細と運用が抱える欠点」を指摘したものにすぎず、それがために、アンチドーピングの「原則」を否定し、全面解禁すべき、というのは、論理性やバランスを欠いた意見だと思う。

たとえれば、30km制限の細道を、気をつけて走っていて、たまたま30.1kmになったら、捕まった。
隣に自分より速く走っていた車がいたのに、そちらは見逃され、自分だけが捕まった。
納得できない、と不満に思う人は多いだろう。

しかし、「だから、速度規制は全面廃止すべきである」という主張が成立すると考える人は、まずおるまい。

アンチドーピング規程及びその運用に不公平・不合理・不条理があることは間違いない。
しかし、それを理由に、アンチドーピングの原則を否定するのは、論理性とバランスを欠く。

規程の詳細と運用は、よりよいものを目指していけばよい。
現在、世界的及びスポーツ全般において認められているアンチドーピングに反対(ドーピングを肯定・擁護)する場合は、規程の詳細・運用ではなく、「理念」に対する反論を提示する必要がある。

私自身がWADA規程の文面をまともに読んだのは、コンタドール事件のときだった。
そして、「この規程は、競技者側が不利すぎる」し、「不平等条約みたい」で、「これでいいのか」という疑念は、今もある。
ドーピングを巡っては論点が様々にあるので、追々。

関連:2012/09/21 : ドーピングを巡る基礎知識(1
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