南の国の太陽、空の色の獅子

Category :  自転車
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シュレク兄弟の映画「The Road Uphill (ロード・アップヒル)」を視聴した。
6月のフィルムセンターでの上映を見逃し、今頃になった。

寂寥感と表現したくなるような、淡々とした描写だった。
そう感じたのは、レース(2011年TDF)の結果(敗北)と、彼らのその後のキャリアの顛末を知っているからか。

そうではなく、自転車ロードレースの映像作品は概ねこういう雰囲気だったろうか。
長く見ていないので忘れてしまった。

内容に、目新しく感じた点はない。
2011年末のルクセンブルクでの公開時に見ていたら、自分の事実認識や解釈の材料として用いたろう。
が、今になると、もはやあれこれと考える意欲はない。

最も印象に残ったのは、アンディの話すときの、穏やかな佇まいだった。

シーンは製作者がセレクトしたものだから、たまたまという見方もできる。
しかし思い起こせば、10代の頃から、飄々あるいは悠然、といった表現をされる人だった。
その後、数え切れないほど映像を見てきたのに、なぜ、「今更」改めて感じ入ったのだろう。

「この映像作品を見るにあたって私の内にあった望みは、そういう彼の姿だった」
ことを意味するのか?

Of course in the coming years, I will try everything to win.
But one day,when I stop cycling, who knows when that will be,
and I never won the Tour, It won't make me an unhappy person.
     ・
     ・
You don't always have to win.
You can't always win.


製作者は、作品の最後に、アンディの上記のセリフを置いた。

このとき、彼が3年後にツール未勝利のままキャリアを終わる未来を知っていた者はいない。

しかし、彼の言動を数年間追い、彼のパーソナリティを知る人間には、言われなくても、とうに判っていた。
ツールで一度も勝つことなくキャリアを終えたとしても、それによって彼が不幸になることはない。

「チャンピオンの器」のアスリートたちをずっと見てきた私には、彼がその範疇に入る選手でないことは最初から認識できた。
だから、残念と惜しむ気持ちもない。

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総括をするなら、彼は、とても恵まれて、幸せな選手だった、と思う。
キャリアの最後の時期を除けば、ずっと幸福だった、と呼んでよい。

2009年シーズンから後は、「1年のうち、まともに仕事をするのは、ツールの1ヶ月間だけ」といって過言でない暮らし方をしていた。
シーズン前半はコンディションが悪く、途中で帰ること多々。戦績はさっぱり。
「ツールに間に合えばいい」の一言で片付け、ツールを大活躍して終わると、その後は予定をキャンセルしまくり、実質的にツールでシーズン終了。

そういう、責任を背負わず気侭に振舞う特別待遇を、チームから認められていた。
具体的には、ボスのビャルヌ・リースは、それを許していた。

それ以上に、彼にとって幸せだったのは、強い信頼で結ばれた仲間たちに囲まれてレースをできたことではなかったか。

チーム・CSC(サクソバンク)で出会った数人の選手たちは、とても仲良くなり、強固に結束したグループを作り上げた。
彼は、そのグループの一員だった。

実のところ、彼等の関係を私が理解するまでには時間がかかった。
完全に吞み込んだのは、レオパード・トレック発足後になる。

“I would just love to keep this group of people together because I love them, I trust them, I like to work with them.”(フォイクト)

「真の信頼で結ばれた人間関係を持つこと」は、人が幸福になる重要な要件だ。
ミヒャエルも、ロス・ブラウンとジャン・トッドという、深い信頼と尊敬と愛情で結ばれる相手と巡り合った。
この2人は、今も変わらぬ「友人」で、多分、現在のミヒャエルの状態を知っている。知っていて、決して口外しない。
そうなのだろう、と私は思っている。

ファンが、アスリートに対して、キャリアの最後の時期を幸せに過ごしてほしいと望むのは、贅沢だ。
満ち足りて幸せな状態であれば、競技を止める理由がない。
競技力の低下や、その他何等かの要因によってモチベーションがなくなるから、止めることを決める。

競技力がまだ高いうちに引退すると、未練が残って、復帰したいという欲望を招く。
復帰した場合、大抵は、思ったようにうまくはいかない。

最後は、「現実を受容」して、ようやく退く。
このとき、心の底から、「勝てなくなった自分」を受容できる人もいれば、できずにいる人もいる。

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私の記憶に残るアンディの姿は、兄を引き連れて、山を登る姿だ。

ふきすさぶ強風をものともせず、長い坂道を上っていく。

駆け引きは不得手。
得意なのは、長く厳しい上り坂を、誰の後ろにもつかず、風を受け、顔を上げて、ペダルを踏み、前へ進んでいくこと。

それができれば、充足することができた。
高い目標を達成したいとか偉大な選手になりたいとか、そういう種類の欲望には無縁だった。

私が好きになった最後のアスリートは、そういう人だった。

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Category :  その他
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KDDIから、ホームページ公開代理サービスを終了するとの通知が来た。先月下旬。
期日は来年10月末。

いずれ他社に乗り換える、そのときに同時に終了、のつもりでいたが、予想外に、KDDI側が先に止めてしまうことに。

さて。どうするか。
これまでは、消えていいと思っていた。
が、アクセスして読んでいるうちに、未練が少し湧いてきた。

彼がいま普通に暮らしているのであれば、心残りは、多分、ない。
そうではないから、後ろ髪をひかれる。

Category :  社会
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●見通し

8月8日の天皇のビデオメッセージ放映後、暫くの間、新聞・雑誌の関連記事を読んでいた。
如何せん知識・情報が低レベルの身だから、解釈に迷う。幅広い論考・見解を知りたい。

自分の関心のひとつは「今後どうなりそうか」の見通しで、先日その目処がたった。

安倍首相のブレーン、百地章が、「生前退位できるよう皇室典範を改正。一代限りの特別立法は無し」の意見を表明した。(8月26日「朝まで生テレビ」)
彼が言った以上、この路線でいくと考えていいのではないか。

百地は、7月のNHKの報道直後は、「生前退位反対。摂政で対応」とコメントしていた。
皇室典範改正などもってのほか。日本会議の基本方針からすれば当然なのだが、天皇直々の言葉と、世論調査で判明した世間の支持を見て、対応を変えたらしい。

どういうことかと考えてみると、彼らの現在の第一目標は憲法改正で、具体的方法として「緊急事態条項の創設」から着手することを決めている。
本音の望みは9条改正だが、これはまだ反対者が多く、実現が難しい。そのため、多数の同意を得られやすい内容のものから始めるという作戦を採用した。

目標実現のためには、天皇の生前退位問題が延々議論になって憲法改正の作業に支障が出るのはまずい。
皇室典範改正は不本意ではあるが、大きな目標のためには目をつむる(譲歩をする)のが得策。
さっさと片付けて、宿願の憲法改正を進めたい。

百地のコメントの豹変の裏は、こんなところではなかろうか。

右派の一部には、生前退位を認めるには憲法改正が必要という説を唱えて、天皇問題を憲法改正につなげようという動きもみられる。しかし日本会議は、その方法は採用しないようである。

また、特別立法という方法は、皇位継承は皇室典範の定めるところによるとする憲法第2条に違反する、という見解(憲法解釈)を、百地は表明している。

とはいえ、実際に皇室典範の条文改正の検討に入れば、議論が色々出ることは予想できる。
最低でも「皇太子が不在のままでよいか」「秋篠宮の身分をどうするか」は決める必要があり、これは「皇位継承」すなわち「女系・女性天皇」の議論に飛び火する可能性を孕んでいる。

憲法改正に関しては、日本会議が政権に及ぼす影響力が強く、彼らの思惑が実現する可能性が高い、と読むのが基本だが、かといって彼らの力が鉄板とはいえない。
事態がどう進んでいくか不確実性は残る。

●天皇制の終焉の可能性

天皇の意見表明は、一般には、「生前退位の希望」と受け取られ、報道もそうである。
しかし、「真の意図」、「ことの本質」は、それではなく、「皇位継承問題」ではないか。

「現行の皇位継承ルールのままでは、皇統の将来に渡る安定的な継続に大きなリスクがある。政府が適切に対応してくれるのを待ち続けたが、何もなされぬまま今に至ってしまった。これ以上先送りしないでくれ」

私が当日すぐ思いついたこの解釈は、複数の人が述べている。
あのメッセージのキモは、最初と最後の段落にある、という解釈をしたのも私ひとりではない。

「男系男子限定ルールは、皇統が途絶えるリスクがある。そのリスクは、許容可能レベルを超える」という判断は、合理的・論理的な思考をできる人なら採用する、と思う。
安倍政権は、女系天皇に反対し、解決策として旧皇族の復帰を主張する。しかし、旧皇族を復帰させる具体的な法律制定の作業を進めることはしない。
自分の在職中に皇位継承資格者がゼロになる等の切羽詰った事態にならなければ手をつけなくてよい、と将来に問題を先送りし続ける。

旧皇族復帰の問題点については、小泉政権時の「皇室典範に関する有識者会議報告書」が明快・的確に述べている。
「今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋」だそうだ。

この報告書を今回の天皇のメッセージと併せて読むと興味深い。
「象徴天皇の制度は、国民の理解と支持なくしては成り立たない」ことを前提とみなし、論理的・合理的に述べている。
そして、天皇のメッセージは、この報告書を貫く原理及び論理展開と矛盾するところがないように、私には思われる。

それでも、「天皇制は、男系男子継承であることに価値があり、女系では価値がなくなる」という「価値観」を、一部の人は持っている。
彼らが女系に反対し皇位継承ルールを変更させないことによって何が起こるかといえば、時間の経過と共に、皇位継承資格を得る可能性を持つ人々が、どんどん年を取り、どんどん数が減っていく。

以前はうまくいっていた制度が、時間の経過によって不都合が出て、このままでは将来の破綻が予想できるが、根本的な改革をせず、破綻するときまでずるずる続ける。
現在の日本では、その現象が多々みられる。年金制度がそれで、天皇制も同類なのかもしれない。

ただ、今上天皇は、「自分の一族の存亡の危機」である自覚から、問題を次世代に残さず、自分の代でなんとかしよう、それが責務と考えているのではないだろうか。
天皇の内面の推測はなるべく避けたいが、「合理的・論理的な思考ができて、思慮深く、責任感の強い人」であれば、そうではないか、それが理にかなう、と思う次第。

付記すると、私は、「天皇制、なくなるなら、それでいいじゃん」派である。
今上天皇個人に対しては、その言動から、尊敬の念を抱いている。しかし、「国家の制度」としては、話が別である。