南の国の太陽、空の色の獅子

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Category :  フィギュアスケート
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ジェーニャを初めて見たのは、1997年の初頭。
世界ジュニアを制した彼は14才だった。

この頃の私は、1年のうち春から秋はF1、F1が休みの冬はフィギュアスケートの観戦を楽しむという生活を送っていた。

1997年10月。
フェラーリ移籍2年目のミヒャエルは、ランキングトップで最終戦ヘレスに臨んだ。ヴィルヌーヴにオーバーテイクされかかったとき体当たりして阻止しようとするも失敗し、タイトルを落とした。(最終年間ランキング2位、後に剥奪)
翌1998年4月。
世界選手権(ミネアポリス)に初出場したジェーニャは、SP2位につけるもFPで3回、転倒した。(4T2回、3A1回)最終結果3位。

1998年11月。
最終戦日本GP。ランキング2位のミヒャエルはPPを取るが、スタートでストール。最後尾スタートで追い上げ中にタイヤがバーストしてリタイア。(ランキング2位)
1999年3月。
世界選手権ヘルシンキ。SPは1位を取るが、FPで4Tを失敗。最終結果2位。

1999年。
7月イギリスGPでの事故による負傷で6戦欠場。(ランキング5位)
2000年3月。
世界選手権ニース。SP2位、FPはミスを連発し、最終結果4位。

2000年10月。
日本GPを優勝しタイトル決定。
2001年3月。
世界選手権バンクーバー。SP1位、FP1位。タイトル獲得。

■■■

1997年から、私は、半年おきに落胆を繰り返した。
秋に、今年もミヒャエルがタイトルを獲れなかったと落胆し、春に、ジェーニャがタイトルを獲れなかったと落胆した。

2人には、共通点があった。
早熟の天才で、最高レベルの技巧の持ち主で、機械のように正確で、冷静で、「人間離れ」という類の描写をされた。
しかし、大きな弱点を持っていた。
プレッシャーに弱かった。

正確にいえば、ある程度までのプレッシャーには強い。しかし、最大級のプレッシャー、タイトルのかかった一番の勝負所では、毎回、「自滅」して、タイトルを逃し続けた。
2人揃って。

ミヒャエルは、超人的な執念と努力を重ねて、タイトルが手の届くところまで行き着くのに、毎回、自分からコケた。
ジェーニャが、1999-2000シーズン、公式戦全勝しながら、最後の最後にコケたとき、「自分の好きになった相手はそんなのばかり」という台詞が口から出た。

「図抜けた才能なのは間違いないし努力しているのに」と溜息をついていたが、4年目に、ミヒャエルは念願をかなえた。
その半年後、ジェーニャもタイトルを取り、私の「彼等が自分の目標を達成する日を待ち続ける日々」は、終わりを告げた。

■■■

この後、2人は共に、勝利を重ね、「皇帝」という徒名を世間からつけられるほどの成功を収める。

2006年。
2月、ジェーニャはトリノ五輪で金メダルを獲得。
前回2002年初出場のソルトレイク五輪ではSPで4Tを転倒、銀メダルに終わった無念を晴らした。

9月、ミヒャエルが引退を発表。

翌2007年から、2人の姿は、競技の舞台から消えた。

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2009年。
10月、ジェーニャは、翌年のバンクーバー五輪を目指し、3年8ヶ月ぶりに競技会に出場。
ロステレコムで1位。12月、ロシア国内選手権1位。

12月。ミヒャエルは、翌年からメルセデスGPチームと契約し、3年ぶりに現役復帰することを発表。

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ジェーニャは、2010年バンクーバー五輪で2位となる。SP1位からFPで逆転負けした。

長年の競技の負担によって膝や腰(骨・関節系)に慢性的な故障を抱え、手術を繰り返しながら、競技生活を続け、2014年ソチ五輪に出場。
団体戦でSP2位・FP1位となり、ロシアの金メダル獲得に貢献。
4回の五輪に出場して、金2個、銀2個のメダルを手にする。

4日後の個人戦のSP開始直前、1年前に手術した腰のトラブルを理由に棄権。
直後、競技からの引退を発表した。

後日、腰に入れた人工椎間板を止めたボルト4本のうちの1本が折れていたという検査結果と再手術の予定を公表した。
(3/3 手術実施)

彼が現役中に受けた手術は合計12回に及ぶ。
文字通りの満身創痍になって競技ができなくなった末の引退だった。

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人工椎間板は、耐用年数が不確かで、この先、生涯に渡って手術を繰り返す可能性を想定しておかねばならないそうだ。(日本では実施されていない手術)
彼はなぜそこまでして競技を続けてきたのか。
痛みを抱え、繰り返し身体にメスを入れ、スケートはおろか日常生活に支障をきたす身体になるリスクを冒して。

「そういう人種」だからだ。
戦わなければ生きていかれない。

ミヒャエルも同じだった。

どれほど勝っても、飽き足りることがなかった。
レースをし、レースで勝つことを望み続ける。

倒れて動けなくなるまで戦い続ける。
生きている限り、どこまでも。

そういう性に生まれついたのだ。多分。

メルセデスとの3年契約を終えた2012年、43才で2度目の競技からの引退をしたミヒャエルは、1年後の2013年12月、プライベートで楽しんでいたスキーで転倒事故を起こした。

頭部に重傷を負い、事故から2ヵ月が経った今も目覚めていない。

ソチ五輪の開幕前、ジェーニャに思いを巡らすとき、ミヒャエルの影が私の脳裏を掠めた。

五輪メダルのコレクションをこれ以上増やすことが、身体をこれ以上傷つけることに値するのか。
もしかしたら、彼もまた命を縮めることを招いてはいまいか。

いや。
彼等から戦いを取り上げたら、何も残らないのだろう。

■■■

団体戦、ジェーニャのFP、"The Best of Plushenko"。
過去のプログラムのメドレーである4分半の演技の映像を見ている間、過去の様々な出来事が脳裏に去来した、という自覚はない。
ただじっと見つめていた。
私の内部から生じてくるものは感じ取らなかった。
ジャンプの回転数も回数もステップやスピンの出来すなわちエレメンツの評価も、プログラム全体の評価も、一切、意識をしなかった。

SPでは、プログラムの途中で「立ち止まる」のが気に入らなかった。動きとしてよくない、という「現在の評価基準」による評価を自分の内で下していたことを意味している。
けれども、FPでは、気に入らないという感情は、ひとつも湧かなかった。

私は、ソルトレイク五輪のFPも、トリノ五輪のFPも、バンクーバー五輪のFPも、当時、いいと思わなかった。
カルメンやゴッドファーザーという選曲は陳腐だし、タンゴ・アモーレも大差ない。プログラムに対しては延々不満を並べ続けた末にトリノの頃には諦めの境地に至っていた。
五輪当日の演技の出来も、3回とも、賞賛に値するレベルではない。

けれども、ソチでのFPには、不満や文句は、一言もなかった。
目に映るものすべてを、そっくりそのまま受け入れることができた。
すべてが、私の中に、すっぽりと入ってきて、満たした。

私が最も好んで繰り返し見た彼の演技の映像は、1998年スケートカナダのFPである。
もしもこの先、競技生活最後の演技を繰り返して見る日が来たなら、私は、とても幸せな観客であったということができるだろう。

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image83.jpg
2001年2月、GPF。代々木体育館。
SP、ボレロのスタートのポーズ。
現在と異なり、写真撮影が自由だった時代。

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