南の国の太陽、空の色の獅子

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フィギュアスケート本その2。

フィギュアスケート王国ロシア (ユーラシア・ブックレット)」(村田隆和/東洋書店/2006)

トリノ五輪直前に出版された、トリノ五輪のフィギュアスケート観戦の手引きになるような本。
メインは、ソルトレイク五輪事件の解説と、トリノ五輪に臨むロシアのエース4組(プルシェンコ、スルツカヤ、トットミアニーナ・マリニン、ナフカ・コストマロフ)の紹介。

著者は毎日新聞の記者で、こういっては失礼だが、「新聞社に、これほどまともなフィギュアスケートの記事を書ける人がいたとは知らなかった」。

昨今のフィギュアスケートブームに便乗した、女性向けのライトなタレント本的な出版物とは一線を画した、社会背景を把握した上での記事である。

ソルトレイク五輪事件は、「冷戦思考に引きずられた」ものであり、01年9月の「同時多発テロで高まったアメリカの愛国心」を背景に、「北米メディアによる扇動的なキャンペーン」が引きおこした、という解説を記している。
「異常」だったのは、ジャッジの不正ではなく(不正を告白したとされたジャッジは、後日主張を翻し、真相は闇の中である)、「北米メディアのパワー」、というこの解釈は、田村氏も採用しているものである。

ソルトレイク五輪事件を、著者や田村氏と同じ解釈で受け取っていると、ソルトレイク以来の北米開催の今年のバンクーバー五輪でプルシェンコが発した採点に対する批判を理解することが可能だ。
彼の発言の背景には、8年前の事件がある。
8年前の事件がなければ、話は全く違う。ソルトレイク事件のとき、彼は、北米メディアに袋叩きにされたロシアチームの一員として現場にいた。

フィギュアスケートに最近興味を持ち、ソルトレイク五輪事件の知識を持たないファンは、一読する価値のある本ではないか、と思う。(ごく薄いブックレットで、文章量は多くない)

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翻って、自分は、冒頭の「はじめに」の中にあった文章に、「そうよ、そうなのよ~、私は、ずっと気づかなくて、ごく最近、『そ、そうだったのか』と目から鱗だったのよ~」

何が書いてあるかというと、「スポーツとしての発祥も古いフィギュアスケートの歴史に、旧ソ連・ロシアが名をとどろかせ始めたのは、1960年代に入ってからと意外に新しい。

そう。フィギュアスケート界に長く君臨してきたかのようにみえる旧ソ連(ロシア)は、実は、そうでもなかった。「後からやってきた」新参者だった、のである。
バンクーバー五輪前、ペアの五輪金メダルが12連覇で止まりそう、という話題が出て、ちょっと興味を持ち、過去の記録を確認してみた。
本棚にある「フィギュアスケートへの招待」(初版)の巻末には、94年リレハンメルまでの五輪と世界選手権のメダリストの一覧表がある。

見て、「ありゃ?」。
記録は、夏季五輪大会の一部として行われた1908年から始まる。1924年が第1回冬季大会で、ペアの優勝者の国籍をみると、オーストリアで、その後に続くのは、フランス、ドイツ、ベルギー、カナダ・・
1964年インスブックまできて、ようやく、初めてソ連が登場する。ここからずっと勝ち続けるわけだが、歴史の中の最初の60年間に、ソ連(ロシア)は存在しなかった。

アイスダンスをみると、世界選手権は1952年からで、トップはずっと「イギリス」組である。少しチェコが入るが、ほとんどをイギリスが占めていて、ソ連が入ってくるのは、1969年から。
五輪種目に正式採用されたのが1976年。この大会で、ソ連は金を取り、その後、イギリス組が意地をみせて取り返したときもあったが(T&D)、上位を占め続けてきた。

シングル種目では長年王座に君臨できなかったことは、実感としてよく知っている。
男子Sは、トリノまで5大会連続五輪金を取ってきたが、この連続記録の最初の1992年アルベールビルのペトレンコが、初の旧ソ連出身の五輪金メダリストだった。それまで、長い歴史の中でただの1人も取れなかった。
女子Sにいたっては、ソ連・ロシア国籍の金メダリストは今だに誰もいない。(94年リレハンメルのバイウルが、「広義の旧ソ連」とはいえそうだが)

本書第1章「フィギュア王国への歩み」での記述。
フィギュアスケート冬季五輪では、初期の大会では欧州勢が圧倒的な強さを誇り、第二次大戦後、アメリカ・カナダの北米勢が伸長してきた。
ソ連が冬季五輪に初めて参加したのは、1956年。

「五輪参加を決めた背景には、戦後の国家再建と米ソ冷戦の深刻化という国内外の問題を抱えていた事情がある。国際社会に対し、ソ連自身の優位性を示す必要に迫られていた。つまり、国威発揚の場の手段として、スポーツ振興政策が取られ始めたわけである。

1960年代初頭には全国各地の選手発掘・育成制度が確立したほか、外国の指導法などを分析したトレーニング・指導理論の研究も進み、国家のスポーツ政策の態勢が整った。フィギュアスケートでメダルを初めて獲得したのは、そのさなかの1964年インスブルック五輪に出場したベロウソワ、プロトポポフ組だった。第1次、第2次の両世界大戦中を除き、毎年行われてきた世界選手権を見ても、1960年代半ば以降、急激にソ連の選手がメダルを量産し始めている」


目新しい話ではない。はい、そうですね、とスルーしそうな話だ。だが、バンクーバー五輪で、ロシアフィギュアスケートチームが金メダルをすべて失った今、こうは言えないか。

「フィギュアスケート王国ロシア」を生んだのが「60年代の米ソ冷戦」であるのなら、ソ連が崩壊して冷戦が終わった今、王国の覇権もまた滅びたとしても、それが自然ではないか。

100年の歴史を持つ競技では、覇権は、移動し続ける。ひとつところにとどまることはない。一国の覇権は、栄え、やがて滅びる。
フィギュアスケートの覇権は、今、アジアに移ってきた。
それでいいのだ。

私は、冷戦時代に生まれ育ち、ソ連の覇権の時代のフィギュアスケートを見てきた世代だから、今のロシアの凋落に寂しさを禁じえない。できるなら、踏みとどまってほしいと思う。
しかし、時代は流れる。それが宿命だ。

「プルシェンコは、ソ連最後の遺産」という科白を、ロシア人の誰かが言った、とどこかで読んだ。
確かにそうだ。

「ソ連最後の遺産」に魅せられて、王国の終焉を見届けることになったのも、悪くはない。

といっても、「今季最大の収穫は、イリニフ・カツァラポフ組。ジュニアのシーズンに生を見て、目をつけることができたなんて、なんて幸せ。先が楽しみ」と笑っているところからすると、「終わった」と神妙に諦めてはいないようだが。
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フィギュアスケート本その1。
バンクーバー五輪は「振り返って楽しい気分にならない」事柄だから、読む意欲が低かったが、マゾ(の一種)を発揮して、読んでみる。(傷跡を弄るようなもの)

パーフェクトプログラム―日本フィギュアスケート史上最大の挑戦」(田村明子/新潮社/2010)

男子Sについては、NumberやWFSの記事の転載部分が多く、目新しさはなかった。
田村氏の見識には一目置いている。北米メディアのロビー活動や冷戦構造の観点を冷静に記述する文章を書いたのは田村氏だけだと思う。

しかし、ジェーニャのFSについての記述に、ひっかかった。

「大きなミスなく終わったときは、プルシェンコが五輪タイトルを守った、と私は思った」

会場のプレス席で見ていた田村氏と、TV観戦の自分とでは、見えているものが違うので、一概にはいえない。
だが、ジェーニャのあの演技を見て、勝った、という判断は、今の採点法を十分理解していない見方、ではないだろうか。

また、北米メディアのロビー活動と国家対立感情の影響を五輪前から察していたのであれば、プルシェンコの敗北は予測できた、ともいえないか?

私は、SPが終わったとき、「勝てない」と、ほぼ絶望した。

田村氏は、競技終了の数日後にジェーニャに単独インタビューし、「SPの点数を見たときに、ぼくはフリーでどんなに完璧な演技をしても、おそらく勝たせてもらえないだろうという予感がありました」という言葉を引き出して、記事にした。

彼の発言が、後付けでない真実かどうかは判らぬが、「私自身は」、この言葉そっくりそのまま、だった。

ジャッジが、3-3の2人に、90点台のハイスコアを出したことに、打ちのめされた。
4-3を決め、ノーミスなのに、3-3のライサチェックに対してたったの0.55しか差がない。
PCSは、3-3の2人の方が高い。
ジャッジは、FSで、この2人がノーミスなら、彼等を勝たせる。2人のうちのどちらかは成功するだろう。相手が1人ならともかく、2人。
ダメだ。ジェーニャは勝てない。

SP後、沈鬱な気分に陥ったのは、この時点で、「敗北感」に叩きのめされていたからだった。FSの結果は予想通りで、一番落ち込んだ時期はすでに過ぎているから、立ち直りが早かったのだった。

FSの得点は、「ジャッジの立場になって」カウントしていた。
確かにジャンプの転倒・すっぽぬけはなかった。だが、GOEでプラスを望めないジャンプが多い。
SPから推測すれば、PCSで、ライサチェックより上の点をジャッジがつけることは考え辛い。ユーロではSPより上がったから、SPほど負けないかもしれぬが、SPで作ったリードはたったの0.55しかないのだ。
100%負けた、とはいわない。だが、もしも勝てたら、僥倖だ。

ジェーニャの演技終了直後の表情も、自分にそう思わせた要素のひとつである。
FS後の記者会見で彼は、「滑り終わったとき、自分が勝ったと思ったか」の質問に「勝ったと思った」と返答したが、自分がTVで見ていたとき、彼の顔から、その自信を読み取ることはできなかった。

競技終了後に出たプロトコルからは、「ライサチェクを勝たせようというジャッジたちの統一された意思」は、確認できない。
ジェーニャのPCSは、自分が思ったほど低くされなかったし、GOEも、抑えられたほどではない。ライサチェックも、GOEでしっかりマイナスをつけられていて、2人を比べたとき、明らかな不公平さは認められない。
現在の採点法に従えば、不適切なジャッジとはいえない、と思う。

ジャッジの中には、ジェーニャにライサチェクより高い点をつけた人もいた可能性がある。公表されるプロトコルは、選手ごとにジャッジの順番を入れ替えて、特定のジャッジが誰を上に誰を下につけたか判別できないようにしてあるので、確認ができないが、その可能性はあると思う。

とすれば、「ジェーニャがFSで完璧な演技をしても、ジャッジは彼を勝たせなかっただろう」という解釈が妥当かどうかは、保留が必要だ。
解釈を述べるとすれば、「SPで出された得点」から、「ノーミスでも勝てないかもしれない」というプレッシャーを受けた彼は、あれ以上、技の難易度を上げることができなかった。
決して転倒もすっぽぬけもせぬよう、確実に慎重にエレメンツをこなす必要があった。そのために、あれが、彼のできる演技の精一杯で、公平な採点をしても、ライサチェクを上回ることができなかったのだ。
さすれば、「彼の敗因は、SPの採点にある」という解釈は成り立つと思う。

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田村氏は豊富な情報・知識を持ち、見識も高いと思うが、本書における採点法の問題についての意見は、物足りない。
バンクーバー五輪で、ISUが、「4回転は苦労して練習する価値はない」というメッセージをはっきり発したことに疑いの余地はなかろう。
そのことに賛成でないのであれば、明確に記述するべきだと思う。

天野氏や城田氏に話を聞く機会がある立場であれば、我々一般観客よりも、深い見識の意見を書けるはずだ。
現行の採点システムがどうしてこうなったのか、これからどこへ向かうのか。

フィギュアスケートの将来の姿は、採点法が決める。素晴らしい選手が1人2人いたところで、採点法が作る流れを変えることはできない。
どれほど素晴らしい選手が目の前にいようとも、それでフィギュアスケートが廃れることはない、という科白は、センチメンタリズムにしか見えない。
はっきり言おう。甘ったるい「幻想」に過ぎない。

時代の大きな流れを個人が止めることはできない。押し流される。どこの世界でもそうだ。

(五輪で日本人選手たちが成功を収めた直後に執筆した本書に要求するのは無理がある、とは承知しつつ)
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がん検診でがんを早期発見できれば、治療して長生きできるなんてのは、ウソである。
検診で発見できる大きさまで進行したものは、転移が始まっていて、進行を止めることはできず、取り除けるとされたものは、進行が遅い性質のもので、そのままほっておいても、死には至らない「がんもどき」。

若い頃は、健康診断や人間ドックを毎年受け、要検査で精密検査を受けて結果が出るまで不安で神経をすり減らして過ごした。
60になったとき、もうこのストレスはいやだ、と検診に行くのをやめたら、気が楽になった。そうして、この10年暮らしている。

人間は、年をとったら、がんになるのである。がんは、他の病気と本質的に違う。老化現象だから、闘うこと自体が無意味。
人間はすべて、老いて、死ぬ。老いて病に罹ることを怖れ、怯えて暮らす人生に何がある。
自覚症状がないうちは、どこかに病気があるかもと思い患わず、一日一日を充実して生きて、いずれ体調が悪くなり、がんになったとわかったら、自分の寿命と受け入れよう。

・・という人生観・死生観を述べる本。著者は、拓殖大学の学長で経済学者。

がん検診の有効性を否定する主張は、自分も、数年前に知り、論理性が非常に高い、と思った。
その後、世間では、「がんで死なないために、検診を受けましょう!」のアピールは目立つが、検診を減らそうという話はみかけない。最新の事情はどうなっているのだろうと確認すると、昨年末に下の本が出ていたので、取り寄せて読んでみた。



著者は、国立がんセンターがん予防・検診研究センター検診研究部長で、検診をやる側の人間である。
世の中には、「がん検診を市町村が無料で実施しても、受けに来ない人」と、「がんで死にたくない、と様々なハイテク検診を受けたがる人」の両極の人がいて、著者からすると、両方とも望ましいものではない。
「国民が、全員一律に、国が推奨する検診を受けること」が、がんの死亡率を下げるために効果的なのである、という主張を述べる。

自分の主張を理解してもらうことを目的に、両方に向けて、がん検診についての正しい情報・知識を伝えよう、と試みている。
そのため、記述の中には、検診否定派の主張を肯定する根拠になるものも含まれている。

・日本で推奨している5種のがん検診のうち、「胃がんのX線検査」と「肺がんのX線と喀痰検査の併用」の有効性は、科学的に証明されていない。

・日本で制定している検診の推奨対象年齢は、他国に比べて押し並べて10才若く、40才からだが、当該年代の有効性は低い。


「死亡率が下がる有効性が証明されていないにも関わらず、推奨する」一番の理由は、「日本では、その年代での当該がんの発症の頻度・死亡率が高いから」である。

著者は、そうはっきり記述している。
これを、此方の頭で解釈して、言いかえると、こうなる。

胃がん・肺がんは、罹患率・死亡率の上位2つを占めるから、国として「何もしない」わけにいかない。
「有効な検診は、乳がん・子宮がん・大腸がんだけです。胃がんと肺がんには、効果が証明されている検診方法は、いまだに見つかっていません」と正直に言ったら、乳がん・子宮がんには関係がなく、肺がんで多数が死亡する「男たち」は、「それでは困る」と言い出すに違いない。
だから、科学的に有効性が証明されていないことを承知で、何もしないよりいい、と気休めで、検診をやっている。

このことを、医療従事者たちは、じゅうじゅう知っている。知らないのは、医療の勉強をしない、厚労省の役人や政治家や、我々一般庶民。

著者は、本書の中で繰り返し、有効性が確認できない検診は推奨できない、と述べている。自分が「矛盾」を記していることに気づいていないのか、気づきながら押し通しているのか。

・検診は、「不利益」を伴うものである。

「一般に医療というものは、始まった時点で必然的に一定の不利益があることが知られています」
著者は、なにげなしに、さらりと書いている。しかし、医療従事者には常識であるこの事実は、非医療従事者には、常識ではないと思う。

私は、「医療崩壊」で初めて知り、目から鱗だった。
「医療行為は生体に対する侵襲を伴い、基本的に危険である」

・「早期発見には価値があるか」に対する回答

「比較的ゆっくり進行するがんには検診が有効だが、あまりにもゆっくり進行するものは検診を受ける意味がない。逆に早すぎるものは残念ながら検診を受けても効果がない」

「がん検診でがんがみつかった人の生存率が高いということも、そのがん検診を有効とする指標にはなりません。その理由はいくつかありますが、いずれも生存率を水増しする方向に働くしかけが隠されているからです」


・内視鏡やCT検査、MRIといったハイテクを使った検査では、がんが数多くみつかるが、みつけなくてもいいがんであることも多い。

検査でみつかるがんの中には、進行が非常に遅く、放置しておいても、命を脅かさないものがある。
これを「過剰診断がん」と著者は呼ぶ。近藤誠医師が、「がんもどき」と名付けて、世に広めたものを指している。

高精度検診での過剰診断の可能性のある肺がんについて、こういう記述があった。

「CTで調べると、通常の検診と比べ女性だけに実に8倍近いがんが見つかるのです。男性では高くでません。たばこを吸わない人たちにみつかる『腺がん』という種類が多いのです。これは、そのタイプの肺がんがいくら最近増えているとしても説明がつく数字ではなく、何らかの過剰診断と関連があると推測されます」

「このようなCTで発見される肺がんが、本当に過剰診断であるかどうかはまだ判りませんが、この結果から非喫煙の女性の肺の腺がんが、相当ゆっくりとしか進行しないがんであることが推定されます」


これは、昨年、「ためしてガッテン!吸ってなくても!謎の肺がん急増中」(11/25)で話題にされた件である。
「たばこを吸わない女性も、2年に一度CT検査を受けましょう」というあの番組の結論を、本書の著者に知らせたら、「それは違います」という意見が返ってくるのではないか。

番組をみた当時の自分の反応は、「たばこを吸わなくても、肺がんになることはあるんじゃないの?がんになりたくないと努力して暮らしたところで、なるときはなる、がんというのはそういうものでは?」だったが、今回、内容確認のために検索したら、別の方面から、「あの番組の内容は問題がある」という指摘があったことが判った。

「日本禁煙学会」が、「『女性の肺ガンの8割は原因不明』は間違いである。女性肺ガン死の少なくとも4割はタバコが原因。毎年4千人近くが受動喫煙で肺ガン死している。 女性の肺ガンと受動喫煙は関係ないという誤った認識を社会に広めたのは、ゆゆしきこと」と主張している。アピール
確かにそうだな、と納得する。

・情報と選択

上記の肺がんの話が示すように、同じ情報を受け取っても、考えることは、人によって違う。人の思考には、「自分の現在の考えや行動、自分がした選択を正当化する」情報を選び取り、否定する情報を切り捨てる傾向がある。そのバイアスが強い状態だと、多数の情報を仕入れても、適切な判断をする役には立たない。

自分も、自分のバイアスを自覚しているが、自覚があっても、薄めることは難しい。だから、時々ある「目から鱗」は貴重で、なるべくそれに出会う努力をしたいと思っている。


関連:2012/09/14 : 「健康不安と過剰医療の時代」


Category :  展覧会
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東博「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」 に、さっさと行く予定でいたが、出品リストの展示替を見て、しばし黙考。

菱田春草の「黒き猫」が前半、「落葉」が後半。
「落葉」を観たい。会期後半は好ましくないが。

前回の「長谷川等伯」で、敢えて後期を待ったら、大混雑に見舞われた。未見の作品が見事に後期に集中していて、どう考えても後期を観たかった。ところが、後期開始直前の日曜美術館が取り上げ、他にも複数TV番組が放映され、観客動員してしまった。
「皇室の名宝」より混むとは思いもせず、呆れながら仕方なく入場待ちの行列に並んだ。

あとで確認すると、会期の最初は、さすがにそれほど混んでいなかったらしい。展覧会はおおむねそういう傾向がある。日曜美術館が放映した後は間違いなく混むから、混雑が厭なら出来る限り早く行った方がいい。

しかし、今回は、展示の内容からして、等伯ほどひどいことにはなるまい。「落葉」1枚のために混雑のリスクを負うのは気がすすまぬが、見る機会が次にいつあるか判らない。
博物館等での国宝・重文の公開は、原則、年間2回・述べ60日以内、の制約がある。
国宝・重要文化財の公開に関する取扱要項の制定について(文化庁)
好きで出し惜しみしているのではなく、文化庁からこういう指導が出ているので、ホイホイとは出てこない。

それにつけても、等伯があれほど人気があるとは知らなかった。見渡すと老若男女で、仏像だけでなく、ちょっとした日本美術ブームなのだろうか。
Category :  F1
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f1.panasonic.comの最後に、本を出す、と尾張さんが書かれていたが、どうなったろう?と思っていた。熱田さんのブログで、出版を知る。
尾張さんの泣ける本 発売!

amazonは送料無料。「トヨタF1最後の一年 (CG BOOKS)
二玄社のサイトに内容紹介がある。

正直にいうと、私は、「泣ける」話を読むのは好きでない。
木下さんの情熱は、2005年以来認識していたつもりだし、TMGの存続のためにトヨタを辞めようという、どでかい覚悟をした話を昨年末に読んだとき、「こころうたれた」一人だ。
http://leonazul.blog87.fc2.com/blog-entry-409.html

しかし、ここに書いたように、トヨタF1の終幕にあたって作文をするなら、一面ではなく、「複数の」観点から語るべき、そうでないと「本質」を見逃したものになる、という考えは今も変わらない。
ぼちぼち書き始めようか、と思った矢先、本社で一連の騒動が起こり、落ち着いてからにしよう、と先送りにしていた。これを読んでから、と更に先送りになりそうな。

・昨日書いた解釈は、間違いだった、らしい

ドメニカリは、アロンソがマッサを抜くのをピットウォールで見て、両手を振り上げた、と報道したイタリアのメディアがあった、という。
そうか。ピットウォールのモニターに、リアルタイムで映った、のか。(TV視聴者は、あとで見たが)
ピットウォールからピットレーンに目を凝らしても、見える距離でないから、認識できないだろう、と思ったのだが。
モニターで知って、すぐ、ピットウォールから誰かが走って、クルーにタイヤ入れ替えを指示した、とすれば、間に合う。辻褄は合う。
昔、雨のレースで、予定していたのと違うドライバーが入っていると、あわあわして手間取ることがよくあった。その頭があって、落ち着いて作業していたのを、勘ぐってしまった。

現地で、フェラーリのピット作業を注意して見ている人はけっこういるから、確認は取れそうな話で、これから探そう。
ドメニカリが両手を振り上げたのが本当なら、公式リリースに、すぐバレるウソを書かなくても。・・本人が覚えていなかったら、ありうるか。
Category :  F1
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・ピットレーンでアロンソがマッサを抜いた件

「チームオーダー」だと思った。

レース後、録画を見直したが、タイヤ交換のチームクルーたちは、全く慌てず、スムーズに作業をしていた。
彼等は、アロンソのタイヤをちゃんと用意して待っていて、作業をした、ようにみえる。

フェルナンドが、チームが与り知らぬところで、ピットレーンで突然マッサを抜いて前に出た、としたなら、マッサのタイヤを用意して待っていたクルーが、慌てふためき、ドタバタしたはずである。
タイヤ交換作業をするクルーたちの目にはピットレーンは見えないし、無線もつけていない。彼等には、ピットレーンでのポジション入れ替えを知る術がない。
つまり、「最初から、アロンソを先に交換する予定だった」という解釈が妥当に思える。

さて、チームはどういうリリースを出すのやら、と待っていたら、全員口裏合わせ。そりゃそうだ。
チームの大本営発表の後、マッサやそのとりまきが、ブラジルメディアに愚痴るとか、イタリア・スペインメディア戦争再燃とか、今後の展開はさてどうなるか。
Category :  自転車
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15/04/10
Fränk and Martine are the happy parents of a girl!
It was precisely on the day of Fränk's birthday that his daughter was born.
Congratulations.

新米パパと新米おじさんが、張り切って、きたるアンデンヌ3連戦で活躍すれば言うことなし。
カンチェが石畳レースを席巻し、他チームの面々も、これ以上サクソバンク1チームにいい思いをさせるほど甘くないと思うが、モチベーションはバリバリだろう。

http://lequotidien.editpress.lu/index.php/les-sports/10558-suis-coureur-classiques.html

しかし、カンチェの歴史的勝利も、勝利そのものを喜ぶより、「スポンサー話が進む役に立つ」という観点の方が大きいのが本音、というのが世知辛いというか。
http://www.cyclingnews.com/news/riis-reveals-the-secret-of-cancellaras-roubaix-attack
噂話としてあるのは、BMCがカンチェとシュレク兄弟に興味がある、シュレク兄弟には新チームの話。
ブレシェルにはラボバンク。・・だそうだ。

BMCのアンディ・リースのインタビュー記事(swissinfo.ch)
噂が出るのはもっとも。
Category :  フィギュアスケート
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世界ジュニアのJスポの放送を見る。
期待に違わず、気分のよいことよいこと。

この楽しい気分のままシーズンを終わりにして、この後放映のあるシニアの世界選手権は見ないでおくか、とまで思ってしまった。
シニアを見ると、なにかしらネガティブな思考が湧いて出てきそう。といっても本当に見ないわけにもいくまいが。

・Elena ILINYKH / Nikita KATSALAPOV エレーナ・イリニフ&ニキータ・カツァラポフ

CD後の「グリシュク・プラトフを継ぐ資質とロシアの上層部が期待している」という藤森さんの科白に、吃驚。
グリシュク・プラトフとは、また随分遡る(その後の世界チャンピオンは無視ですか)というだけでなく、「そこまで期待されているの??」

FD後は、「ドムニナ・シャバリンが抜けて、そのあとのロシアのエースになると思います」
まだ15才と18才で、「テッサたちもそのくらいのときから注目されて4年後金メダル」
ヴァーチュ・モイアが4年前のジュニアチャンピオンで、4年後バンクーバーで金メダル、という話はその前に出た。

JGPFで目を惹かれたとき、ロシア国内選で2位、JGPFでも最終2位で、ロシアのジュニアの2番手なのね、と思い、そこまで有望視されている組とは知らなかった。
JGPFまで2位だったのに、どうしてワールド1位に?と首を傾げていたが、JGPF後の3か月間猛練習して、その甲斐あって伸びた、との解説。

2位のカナダのカップルもよかったが、JGPFで、「カナダはどんどん若いいい子が出てくるなあ。恐るべし」と思ったカップルではなく、別の組。(Alexandra PAUL / Mitchell ISLAM)
JGPFで見たKharis Ralph / Asher Hillは、国内シニア4位で、ジュニア世界選には出場せず。

どれもみな「先が楽しみ」と素直な気持で見られ、清々しく心地よい。採点がどうのという文句なしで。
こういうのが、スケートを観る本来の楽しみ、なのである。

・CDの行方

藤森さんが、最後に必ず述べてくれると思って待っていた。(ルールを含めた来季の展望を述べるのが恒例)
CDとODをコンバインした新しい競技(ショート・ダンス)が始まる、と断言された。
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・Vuelta Ciclista al Pais Vasco
兄弟が一緒に走るのを神様が邪魔しているのか。アンディが戻ってきて、ようやく2人揃ったと思ったら、今度は3日目にしてフランクがクラッシュしてリタイア。

この兄弟は、今季まだ結果を出していない。リースが「フランクは、そろそろ結果出せ。アンディは、ツールに間に合えばいい」と言った矢先。

・スポンサーの見込みの話
Team Saxo Bank ready to open talks with two potential sponsors
シュレク兄弟とカンチェの二枚看板はでんと構えているが、他のメンツはそうもいかなそうで、ちらほらと。
Breschel waiting on contract for next year
Category :  F1
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感想。

ラストラップのドカンを見ても、落胆が全然なかった自分。

以前だったら、「2ポイントが~!」「そんなにとばして、攻めるから・・なんで、トラブル抱えているのに、大事にチェッカーまで持っていかなかったの?」と文句を言っていそう。
ところが、「いいんじゃないの」。

これが、「現実あるがままの相手を受け入れる境地」なんだろうか。
かどうかは判らぬ。ただ、ケチつける気は全く起こらず。

2年ノロい車に乗って過ごして、久しぶりにガンガン速いマシンに乗ったもんで、攻められるから、イケイケで攻めたとかいうなら、それでもいい。
のろのろ走って、1ポイントをかき集める、それもいい。でも、攻めて壊れたなら、それでもいい。

・・自分のこの鷹揚さはなんなのか。
開幕戦で勝っても、全然喜ばず、前戦でも、辛気臭いことを書いた。
今回、いままでより気分は晴れやか。
リタイアしたのに。マッサにランキングで抜かれたのに。

フェラーリは、「ぐだぐだ」を起こすに決まっていて、2戦無事にすんだのが意外なくらい。
前回その旨を書いたとき、「こういうことを書くと、次にヤることが多い」と知っていた。その文章も付け加えようかとも思ったが、わざわざ「言霊」にすることもあるまい、とやめておいた。
だから、自分の内では、予想していた、のだった。

メカニカルトラブル・オペレーションのミスをすることがあるのは当たり前。するときはまとめてした方が、バラけてするよりいい。
トップ走っていたら、さすがに、「25ポイント~!」となるだろうが、2ポイント、ということもあるのだろう。

モタモタ走ってなんかいないで、ガンガン攻めて、ドカンでもいいのよ。F1は壊れて当たり前なのよ。昔のF1はそうだったのよ、耐久レースじゃなく、スプリントなんだから。
なんか・・旧採点脳でいいんだ、新採点法なんか知ったこっちゃない、というフィギュアスケート観戦の感覚が伝染したとか・・?
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私の頭に最初にインプットされたMichelangelo Merisi da Caravaggioの人物像のイメージは、デレク・ジャーマンの映画「カラヴァッジオ」である。おかげで、「同性愛・・、いや、デレク・ジャーマンがゲイだからで、史実は違うんだっけ?(未確認)」

「ボルゲーゼ美術館展」(都美)の出口に置いてあった、今年日本公開の映画「カラヴァッジョ」のチラシを手に取り、読むと、同性愛のどの字もなかった。
するっと読んで終わりにしようと思ったら、最後にあった「主人公カラヴァッジョを、『輝ける青春』のアレッシオ・ボーニ」の記載に、慌ててチラシをひっくり返し、アップの顔の写真を見直した。
「ヒゲ」で、顔が判らなくなるという情けなさ。

「輝ける青春」のマッテオは、繊細で孤独で破滅するキャラで、印象的な美貌だった。画面に最後に登場したときの、兄ニコラと自分のかつての恋人の肩を抱き、2人を結び付ける亡霊の美しいこと。
あの映画には、ソレ(同性愛)を窺わせる要素があった。とすると、その理解でいいのか?
・・解説本を読むか。



この本の中に、「映画の中のカラヴァッジョ」というコラムがあった。
チラシの映画については、「恋と芸術に生きた真面目な二枚目として彼を描いた」。

「いずれのカラヴァッジョ像も真実からほど遠く、私としては不満が残った。もっと破滅的で、人格が破綻し、傲慢かつ繊細なならず者だったと思うからだ」
これは、勿体ない。ボーニがこういうキャラを演じたら、きっと魅力的だったろう。
それとも、一昔前の物語の人物像すぎて、今受けしなくてダメなのだろうか。

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自分は長く、Caravaggioを知らなかった。学生時代に仕入れたイタリア美術の知識は、ものの見事にルネサンス期までだった。
ルーベンスやレンブラントやベラスケスやラ・トゥールの絵は知っていたのに、それらに影響を与えたバロックの最初の重要な画家がすっぽ抜けていたとは、やれやれ。

展覧会巡りを再開した一昨年から、ぽつりぽつりリハビリ+新たな知識を仕入れ、その中で、カラヴァッジオの実物を見たことがないので、見てみたい、と思った。
学生時代にヨーロッパ旅行で美術館巡りをしたとき、前を通った可能性があるが、当時は関心がなかったから、見ていない、のである。

昨年11月、「THEハプスブルク」(新美)に行ったとき、離れた所から見て、強く惹きつけられた一枚の絵があった。
近づいてゆきながら、「カラヴァッジオみたいな絵だ」と思った。
今回、カラヴァッジオは来ていないはずだ。
プレートを見ると、タイトル「オリーブ山のキリスト」、作者名は「バッティステッロ」とあった。
自分はカラヴァッジオの絵を図版でしか知らぬが、「カラヴァッジオの絵はこういう感じ」で、似ている、という感覚が(なぜか)強くあり、気になるので、会場に置いてある図録のページを繰って、解説を探した。

すると、この作品の作者はカラヴァッジョとみなされていた時期があった、という簡潔な、しかし私が納得する記述があった。

3ヶ月後、「ボルゲーゼ美術館展」へ、「本物のカラヴァッジオ」を見に行った。
図版で知っている絵の実物を見たとき、「実物を見たぞ」という満足を超えるものがないときと、それ以上の収穫があるときと2種類に分かれるが、今回は残念ながら前者だった。

カラヴァッジオを展示した部屋には、彼の影響を受け、様式を模倣した画家たちの作品が、本家を囲んで複数並べられていた。
その中で、本家の2枚先にあった絵に、目を惹かれた。
主題は、ゴリアテの首を討ち取ったダヴィデ。
近づいて、プレートを見ると、「バッティステッロ」。おやおや。

本家と並べて見ると、違いははっきり判る。光と闇のコントラストが、本家ほど強くなく、淡い。といっても、バッティステッロも画風が変遷している、と図録の解説にあった。一概にはいえない。

後日に読んだ上記の本の終章に、カラヴァッジョの影響を受けた画家たち(カラヴァッジェスキ)の解説があり、バッティステッロの記述もあった。

紹介されていたカラヴァッジェスキたちの絵の一枚、アルテミジア・ジェンティレスキの「ユディトとホロフェルネス」は、この夏、西美の「カポディモンテ美術館展」で来日する予定だ。

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レンブラントやラ・トゥールを見る前、いやせめて同じ時期に、これらに先んじて存在した画家としてカラヴァッジオを知っていれば、17世紀の絵画を見る目が違っただろうに、と少し悔やむ。

「ロレートの聖母」をサンタゴスティーノ聖堂の礼拝堂で見てみたいものだな、という欲望が湧いたが、そのためにローマに行こうというほどではないから、諦める。

・おまけ
バッティステッロ「ゴリアテの首を持つダヴィデ」のダヴィデの顔は、実在で現存するある人物の顔を、自分に連想させた。
とてもよく似ている、とはいえないが、一度思いついたら、そう見えてしまうのが怖い。
人物像に通じるものがあったら面白く、言い触らしたいネタだが、あいにくとそうではないのが残念。
(過去このブログで言及したことのある人物だが、判る人がいるだろうか)