南の国の太陽、空の色の獅子

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Category :  展覧会
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菱田春草の代表作「落葉」を、昔、図版で見て(母が持っていたと思われるので、随分昔)、関心を持ち、いつか実物を見たいと思っていた。
永青文庫の存在を知っていたのは、春草ゆえである。

が、「今の自分」は、「落葉」よりも、その前の時代の彼の作品を好むことが、今回判った。
制作年代をいえば、明治30年代後半。40年代に入ると、様式化が進み、整ってくる。「琳派」の様式が入りこんでくる。そうなる前の、「朦朧」とした時代。

展示室はこじんまりとした一室のみで、展示作品は30点ほどだった。
私の選んだベストポジションの椅子は、「夜桜」の正面。
「夜桜」の左隣には、「秋の夜美人」と「春色」が並ぶ。この3枚は、似た色調を持ち、3枚が調和している。
右方に視線を移せば、2枚向こうに、私が最も気に入った「夕の森」。
右の視界の端に、「月四題」。背後を振り向けば、「羅浮仙」。

「月四題」は、山種で見たとき、いいと思った。だが今回、再見すると、魅力が減じていた。
理由はすぐ判った。前回は、展覧会の他の作家の作品と比較しての感覚で、今日は、春草の他の作品との比較になる。この作品には、明らかに琳派の様式美が伺えた。

明治30年代後半の作品は、形状だけでなく、色調が、ぼんやりとして、とらえどころなく美しい。
「羅浮仙」の青は、絶妙だ。黄と茶系統の色が全体を支配している今回の展覧会の作品群の中で、はっとなる色彩だ。

春草の画から、哀しみや寂寞とした情感を禁じえないのは、早くに亡くなったことを先に知っていたからだろう。
予告なく展示作品の中に紛れ込んでいて、ちょっと驚いた横山大観の画を見て、大観の画には、男性的な力強さを感じる、春草にはそれがない、繊細で儚い、と改めて思った。

東博で下村観山の「鵜」を見て以後、私にとって春草のイメージは、小さな小鳥である。
春草の死を悼んで制作したこの屏風で、観山は、自身を、岩の上で嘆く鵜として右隻に、春草を、飛び去っていく小鳥として左隻に描いた。

屏風の作風は琳派で、地は金、青灰色の岩肌はたらしこみで描かれているが、疑いようもなく、不安や寂寞感を見る者に伝えている。

左隻に描かれたのは、小鳥1羽だけ。他はぽっかりと何もない空(くう)だ。
ダイナミックな構図に、遠距離から、すぐ目に止まり、情感に圧倒され、一区切りついてから近寄って、プレートに記された作者名と解説を読み、より深く印象に残った。


会期終了前日の土曜という、通常なら人出の多そうな日に出掛けたが、人影少なく、静かだった。
秋色の作品群は今の季節に相応しく、落ちついて心地よい空気の中に浸って過ごした。
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■NHK「ためしてガッテン 吸ってなくても!謎の肺ガン急増中」(11/25放送)

タバコを吸っていないのに肺がんになったら、「理不尽」とか「納得できない」とか「悔しい」と思うのを「常識」とみなして、どんどん話を進めていく光景に、「ええ?」と吃驚した。

喫煙が肺がんを引き起こしやすい、ということは常識に近くなっているが(今だに納得しない人も多数いるのが現実)、「肺がんの原因がすべて喫煙である」とは、私は聞いたことがない。

根本認識をいえば、現在の医学では、「貴方ががんになった原因は、××です」と特定はできないケースがほとんどだと思っている。
よって、「女性の肺がんの原因の2割が喫煙、8割は不明」というデータは、おかしくもなんともない。
というより、そのデータは、患者のうち2割が喫煙者(もしくは受動喫煙者)で、8割はそうではなかった、ということを示しているだけでないか、と思う。

「肺がんになるファクターから逃げて、健康にとても気をつけていたのに、なんで私が」と言われても、「いや、どんなに頑張っても、なる場合がある、努力で避け切ることが可能ではない、というのが現在の医学での認識だと私は思ってるけど・・がんの専門医に聞いたら、そう答えるんじゃないの?・・違ったっけ?」

しかし、NHKが「なんの躊躇もなく」「堂々と」こういう番組を作るのだから、私の認識は、一般世間の常識とは異なる、らしい。
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出版は06年。トヨタやホンダの本はいうに及ばず川端康成の小説を読む暇があったら、これを先に読むべきだった。
Amazonのレビューを見れば、案の定絶賛の声だらけである。

序盤、「ナイフのように切れ味のいい文章」に感心した。いや、外科医だから、ナイフでなくメスか。
読み進んでいくと、文章以上に、記述の中身の切れ味の鋭さが、半端でない。
最後には、医療従事者以外の日本国民全体をぶった切る。
辛辣な言葉は、直接的には「ジャーナリスト」に向けているが、それは「ジャーナリストが社会思想に対し影響力が大きい」からであり、著者の批判の対象は、「患者」即ち医療従事者を除いた全員である。

以上は自分の抱いた感想で、同じ本を読んでも、何も感じない人もいるのが哀しき現実であろう。
いや読むならまだましで、読んでみようともしない人の方が多いのだ。・・自分も今まで読まなかったのだから。

「医療とは本来どういうものかについて、患者と医師の間に大きな認識のずれがある」

「医療の不確実性は人間の生命の複雑性、有限性、各個人の多様性、医学の限界に由来する。
医療行為は生体に対する侵襲を伴い、基本的に危険である。
これを患者に正確に判ってもらえるようにするのは至難の業である」

「医療には限界がある。
しかし、多くの患者はこれを実感として理解していない。
すべての人間は必ず死ぬということは分っているが、自分や自分の家族の問題として捉えていない。
生命を守ることを医学の任務とするならば、医学は最終的に、100パーセント任務遂行に失敗する。
しかも、いつ失敗するか正確には予想できない。現代医学には、体内に起こっていることを大まかに想像する程度の能力しかないからである」


ちょうど1年前、私の家族は、著者の指す「患者」そのままだった。
某大学病院の心臓血管外科の担当の医師は、手術の実施前に、文書で、危険性の説明をし、内容を了解するサインを求めた。
難しい手術ではないので、通常の危険性は3%だが、今回は個人の条件上、上昇して5%ある、と述べた。

医師の説明を、家族の1人として後ろで聞いた私は思った。
「手術で死ぬ可能性が5%あります、と宣告されたわけだ。今手術をしないと死ぬ、あるいは急速に病状が悪化する可能性が高いなら、手術は十分理に叶う。でも、そういった差し迫った病状ではないのに、手術をすると、ここで人生おしまい、ということもあるとすると、自分なら、怖気づくな。運が悪けりゃここでおしまいでもいい、という覚悟が要るから」

だが、私以外の家族は、私と同じようには考えなかったらしい。
「大丈夫だろ。最近は患者から訴えられることが多いから、予防線を張ってるんだよ」
返ってきた返事がこれである。

5%の危険性が嫌なら、手術は何も受けられない。手術に限らず、日常生活に支障をきたす。人は、日常の生活において、5%のリスクは思い煩わないのが普通だ。自分は運の悪い5%には入らない、95%に入る、と思って暮す。

そして、もし5%に当たったら、運が悪かったと悲しんで、それですませればいいのである。
うちの家族も、仮に、手術で運悪く5%に入って死んだとしても、医者が悪いと文句は言わなかったことは間違いない。
医療の本質を判っていなくても、大人しく現実を受け入れて、医療側に噛みつくことをしないなら、それで問題はないのだ。

そこからすれば、「おかしくなった」のは、著者の述べるように「日本人の死生観」というより、「自分の利益・可能性・欲望を限りなく追求」し、同時に「他人に対する要求が限りなく大きくなった」日本人の倫理全般ではないだろうか。
死を受容せず、医療側を攻撃するのも、「行きすぎた利己的欲望追求」の一環である、という解釈の方が当たっているのではないか。

著者は、理系と文系両方の脳を持った非常に頭のいい人だ。
法律家と正面切って論争しようというのだから、相当の自信がないとできない。

「医学は、あらゆる学問を取り入れる柔軟性を持つ。生物学、化学、工学、物理学、統計学、経済学、経営学、社会学、文化人類学、哲学、倫理学、心理学、と何でも取り入れる。法律学も、必要とあれば勉強してしまう」
強烈である。
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■「ハーディ・バラックス」補遺

東京都内の米軍基地に関する情報を探したら、「東京都知事本局基地対策室」によるHPがあった。
「東京都の米軍基地対策」

「赤坂プレスセンター」が、ハーディ・バラックスの公称だが、「麻布米軍ヘリ基地」が、実態を表現していて適切だと思う。「赤坂プレスセンター」では、知らない人には基地だと判らず、誤魔化しに聞こえる。
市販の地図が、揃って記載を回避していることも、その感を強くする。
現地では、そこら中に「在日米陸軍地区」の看板が出されていて、全く「隠していない」のだが、出版社は、現地に行く機会のない日本の皆さんは知らなくていいです、知らない人は知らないままでいて下さい、臭いものに蓋、みんなで自粛、ということか。(他に解釈ありやなしや)

■東京の変遷

写真で見る江戸東京 (芳賀徹/新潮社/1992)
江戸城を歩く (黒田涼/祥伝社/2009.6)
江戸のなりたち[1] 江戸城・大名屋敷 (追川吉生/新泉社/2007)
江戸のなりたち[2]武家屋敷・町屋 (追川吉生/新泉社/2007)
皇室の邸宅―御用邸・離宮・宮家の本邸・別邸・庭園 (鈴木博之/JTBパブリッシング/2006)
皇居―自然・歴史・建築・行事 (村田正博/JTBパブリッシング/2006.)
図説 占領下の東京 (佐藤洋一/河出書房新社/2006)

東博のミュージアムショップの棚と図書館の棚から、いもずるで読み進んでいるジャンル。



この本は、時代が飛ぶが、パラッと中を見て、東京に存在した「軍用地」と「御料地」の分布を示す地図に、手が止まった。(地図は別々)

自分は、それまでに読んできた本によって、江戸時代、大名屋敷の敷地が東京の中心部で占める割合が非常に高いこと、明治維新後の皇族たちの屋敷や、現在の都立公園の多くが、元を辿れば大名屋敷であること、を知った。
「土地利用の変遷」に関心を持ち、「皇室所有地」は、東京の中心部の重要な要素のひとつではないか、という思いつきを抱いていた。

本書の第1章には、明治以降の東京の都市空間を考える上で重要かつ象徴的な2つのカテゴリーがある、それは、「軍用地」と、天皇・皇室が所有する「御料地」である、という記述がある。

この2つの土地は、東京中心部でかなりの範囲を占有していたが、東京の「都市計画の政策」とは別の独自のプロセスで、都市空間を形成していった。つまり、都市の空間形成を司るシステムが二重に存在した。
そして、後の占領軍による「接収地」もまた、都市計画の枠組の外のシステムだった。
占領軍は、進駐して最初に軍用地を接収したので、接収地の一部は軍用地と重なる。

この著者の記述は、大いに興味をそそった。

御料地の分布図もさることながら、軍用地の分布の地図に、私の目は吸い寄せられた。御料地より、私のアンテナに強く反応した。

地図の中の一つの名に、はたと気づいた。
「駒澤連兵場」
ここ、東山じゃないか。
私が小・中学校時代を暮した場所である。そういえば、連兵場跡地だったという話を聞いたことがある。吹きさらしの野っぱらだった、と大人たちが話していた。
子供だった自分は、意味が判らなかったし、その後も、考えたことがなかった。今の今まで。

巻末に掲載の「都区部の軍用地の変遷と接収地」は、江戸末期から明治・昭和・占領期・平成までの都内の各エリアの変遷をまとめたもので、「そう、こういうのを見たかったのよ」と手を打って喜んだ一覧表だが、「駒澤連兵場」を見ると、間違いない。私が住んでいた住所が記してある。

本書には、地図及び写真が、豊富に掲載されている。アメリカ国立公文書館所蔵の、米軍が撮影した昭和20年代の写真は、見入るもの多数だが、中で最もインパクトが強く、自分が繰り返し、長々と見入ったのは、P.83のワシントン・ハイツの空撮写真だった。

だだっぴろい平坦な敷地に、多数の低層の住宅がカラリと並ぶ。その向こうの黒い森には、「明治神宮」と記載されている。
え?明治神宮の隣がこうだったの?
このエリアに今は何があるか、はっきりと知っている。東山に住んでいた頃から馴染みのエリアだ。それがため、この光景を、すんなり飲みこめない。

<ワシントン・ハイツ>
元は代々木連兵場。占領軍に接収され、居住用住宅として827戸が建設された。東京オリンピックのとき選手村として使われ、五輪終了後、日本に返還され、取り壊された。現在、代々木公園・代々木第一体育館・NHK・渋谷区役所・渋谷公会堂などがある。

全く聞いたことが無かったことではない。五輪の選手村の話は読んだことがある。何かの折に読んだり聞いたりしたことはある。だが、自分の頭の中で、全体像として理解をしていなかった。


私は、少し前まで、「東京の過去」に無関心だった。
ひとつは、学生時代、京都に住み、古き都に魅せられた身には、東京は、所詮「あずまえびす」で、歴史と呼べる歴史を持たない土地に映った。
みるべきものは江戸時代以降しかなく、自分は江戸時代に興味を持ったことがない。世の中は、暫く前から江戸ブームだが、あいにくブーム(流行)に乗るのを嫌う体質だから、逆効果だった。

変わったのは、自分が生まれ、そして現在住むのは、ここ東京であり、東京が、間違いなく、「自分の場所」なのだ、と気づいたことによる。
私は長い間、「今、自分のいる場所は、自分がいるべき場所ではない」という感覚を抱いて生きていた。今の住まいに越してから、その満たされなかった気持ちが少しずつ消えていった。

思い返せば、京都に暮したときも、名古屋に暮したときも、思いはいつも東京へ向った。
死ぬときは、東京で死にたい、東京に帰って死にたい、と、いつも思った。
転勤族の親を持った私は、故郷と呼べる場所を持っていない。だがおそらく、人間は、幼年期を過ごした土地に愛着を抱くのだ。
東京が、私の「帰る」場所であり、今の私は、自分のいるべき場所に帰りついたのである。
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「THE ハプスブルク」(新国立美術館)を見た後、かつて「ハーディ・バラックス エリア1」と呼ばれていた地域を周ってみた。

ハーディ・バラックス エリア1(Hardy Barracks Area 1)
戦前、日本軍の歩兵第三連隊の敷地で、戦後、占領軍に接収された、港区六本木エリアの名称。

「敷地の大部分はすでに日本側に返還されたものの、平成18年(2006)現在、まだ一部は接収されたままであり、ヘリポートや星条旗新聞社、それに兵舎などが米軍によって使われ続けている。

第三連隊の大きな建物は、昭和33年(1958年)に日本側に返還され、東京大学の生産技術研究所が使っていた。しかし平成12年(2000年)に取り壊され、現在は新国立美術館の建設用地になっている」

「図説 占領下の東京 1945~1952」佐藤洋一 2006年発行 P.36)

先月、読んでいた本の中の上記の一文に、驚いた。
後半は知っている。新美の本館の1階ロビーには、取り壊される前の建物の模型が置いてある。「目をひく建築物」だ。
敷地の中には、建物の(ごく)一部分が、修復・保存され、別館として内部が公開されている。
このときに、経緯を知った。

問題は、前半部分である。
新美のすぐ近くに、「60年経った今も接収されたまま」のエリアがある?
この「東京のど真ん中」に?

家にある市販の地図を見ると、該当エリアには、「Hardy Barracks」と「星条旗新聞社」と記載された建物が描かれているが、他は空白だ。
「何も記載のない空白部分」はどうなっているのだろう?

穏やかな秋の午後、色づいたケヤキが美しい新美の敷地を歩き、乃木坂側の門を出て、地図を見ながら進んでいくと、すぐ「青山公園」が左手に現れた。
なにやら、うさんくさげな雰囲気がぷんぷん漂っている。

道に隣接した一角には、特設テントが張られ、劇団が芝居の公演をしている。(劇団1980・新宿梁山泊 合同企画公演 宇田川心中)
その先(南方向)の道沿いにはグラウンドが広がっているが、奥(東側)は、少し土地が高くなっていて、木々が茂り、何があるか見えない。遊んでいる子供たちの姿があるので、危険ではなさそう、と登ってみる。

登り終わった所の左手(北側)に、石碑があるのが見える。探し物に関係がありそうだ、と近づけば、「麻布台懐古碑」とあり、近衛歩兵第五連隊と歩兵第三連隊の有志によるもの。
「ハーディ・バラックス エリア1」の遺物第1号発見、である。

この場所の変遷を縄文時代から書き起こした回顧の碑文(よくある、旧日本軍の団体のノスタルジア)を読み終わって、くるりと反対に向きを変えると、前方(南側)に、「探し物」の姿が見えた。

一面、べったりと何もない平地で、ヘリポートである。
背景には、六本木ヒルズの森タワーが聳える。
鉄条網・在日米軍ヘリポート・六本木ヒルズ。
なかなかシュールな光景だ。

それにしても、こんなに、あけっぴろげに見物できるとは予想しなかった。フェンスで囲ってあるだけで、目隠しも何もなく、こちらの方が高台だから、よく見える。
ヘリポートの向こうに、Hardy Barracksと星条旗新聞社の建物が望める。

高台には、東屋みたいな場所まで設えてあり(流石にベンチはなかったが)、まるで展望台のようである。
在日米軍基地の見物を奨励しているというのも、どうも妙だ。公園の施設は全体として古び、朽ち果てた元水飲場らしきものもある。開発に取り残されて荒れた雰囲気のある公園だ。

東京ミッドタウンの檜町公園と比べる方が悪いのだろうが、六本木の再開発として華やかに取り上げられるエリアのすぐ隣にこういう場所があることを、世の中のどれだけの人が知っているだろう?

公園がヘリポートを囲んでいる、というか「公園にヘリポートが食い込んでいる」かのような位置関係なので、フェンス沿いをずっと歩ける。
ちょうど反対側まで来たとき、爆音と共に、ヘリがやってきた。

公園の南端からは、「ハーディ・バラックス」の建物を見下ろすことができる。居住用の建物に見えるが、巨大なパラボラアンナテが、単なる宿舎とは違うことを示している。
フェンス(鉄条網)のそこら中に、こちら向きに「U.S.Army Area 在日米陸軍地区」の看板が並んでいて、威嚇している雰囲気を感じる。

公園を出て、星条旗新聞社前の道へ向う。表向き、星条旗新聞社という名称だが、要するに「米軍基地」エリアで、道沿いにずっとフェンスが続いていて、ひとつだけある門に複数の警備員がいて、中に建物がぽつんとある、という状態だった。
敷地の端まで行って、全体像が掴めて満足したので、青山霊園に行こうと、来た道を戻ったが、自分が基地の周りを歩いている間に、ヘリの爆音は複数回聞こえてきた。

帰宅後、ネットで検索してみると、色々な情報がボロボロ判った。
麻布米軍ヘリ基地撤去実行委員会HP 
出て行けという問題になっていて当たり前の話である。
判りやすい地図・写真も掲載されているので、関心を持った方は、こちらをどうぞ。

今は、ネットというもので、簡単に判る。だが、ネット上にあっても、知らずに過ごす情報の方が多いのだ。何かのきっかけがなければ。
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「いもずる」で本を読んでいくうちに、当初目的のテーマから離れて、関連する別の話題の本へズレていってしまい、ありゃ?ということはよく起こる。

今回の最初のきっかけは、今年、臓器移植法の改正案が議論され、成立したこと。
報道を読む限りでは、来年の施行後は、「臓器提供を拒否する意志表示をしておかないと、脳死判定をされ、家族が医者に説得されて臓器提供に賛成したら、心臓が止まる前に、心臓を取り出されて移植される可能性がある」わけである。
自分はそれでいいのか、それとも、拒否する意志表示をしておくか、どちらか決めておいた方がいいのではなかろうか。

「そういう局面になる確率は低いから、自分には起こらないでしょ、とほっぽる(飛行機が落ちることを前もって想定して、準備して飛行機に乗らないのと同様)」「家族の意志に任せる」「どうなろうが先のことはどうでもいい」といった選択肢もある。
だが、「脳死を人の死と認めるか」の設問に対して、「明確な」回答を持っているかといえば、現在の自分は持っていない。アンケートでいえば「わからない」と回答する部類である。
これはひとえに、「自分が知識を持っていない」ゆえだ。これは、ちょいと気に入らない。
この機会に、知識を仕入れて、自分の考えを作っておきたい。
これが始まりだった。



古い本だが、「そもそも脳死とはどういうものか」という基礎中の基礎の知識を仕入れることからスタートするのがよいと思ったので、最初に読む本として選んだ。
立花氏が「専門知識を何も持たない素人」の立場からスタートして、専門家たちに素人の質問をぶつけて、彼自身が「そういうことか」と理解する過程を描いているので、自分のニーズに合っていた。古くても、十分役に立つ。

これ1冊だけで、目からウロコである。
乱暴にいってしまうと、今も、世の中の多くの人は、脳死と臓器移植の「現実」を知らない。「観念」だけで、この問題を考えている。

私自身が、以前そうだった。97年に臓器移植法が成立して、ドナーカードの配布が始まったとき、臓器提供に、頭から反対意見を持たなかった。
「助からないことがはっきりしているなら、臓器を提供して、誰かが生きのびる役に立ってもいいんじゃないのかなあ?あの世も何も信じてないから、死んだらおしまいで、遺体がどうなろうがいいし」と、素朴な考えを抱いた。

今振り返れば、これは、脳死と臓器移植の「現実」(病院の現場で「具体的に」、どのようなことが行なわれるのか、医療側がどう振舞い、臓器提供者の身体がどう扱われ、看取る家族が、通常の死亡時とはどのように異なる対応を迫られるのか)を知らない、「素人の無知」がもたらす、無邪気な発想であったことが判る。

この後、自分は、病院で母を看取り、葬式を出した。「家族の死をどのように受け入れるか」を、自分で経験した。
そうすると、次にまた家族を看取るとき、「心臓が動いているうちに、もう助からない、と医者に言われたからといって、納得して、さっさと諦めて、手術室に送って、身体を切り刻む」ことを自分が承認する気分になるかといったら、ならないだろうと思う、と返答せざるをえない。

これは、家族の死を看取るということを、「観念」ではなく「現実として」知ったゆえだ。脳死と臓器移植の問題についても、この延長線上に考えることができるようになった。

今回、様々な意見を読み、この問題は、まずは、個々人の価値観の問題であり、自分自身はどうしたいかを自分に問うて考えるべし、と思った。
普遍的な「正解」はない。自分の考えを決めるためには、賛成・反対両方の意見を知ることが必要だ。自分が思いつかなかった観点や考え方、医療現場に存在する様々な現実の問題がある。

「臓器提供してもいいんじゃない?」とのほほんと一時期でも思った自分は、おめでたい一般市民であったらしいことは、図書館の棚に、反対意見の本が大量に並んでいるのを見たとき、知った。



へそまがり気質のおかげで、反対意見の大群には、逆に警戒心が湧いた。納得する箇所もあるが、反対論者たちの「感情的」な記述には、引く。主張は、論理的に述べてもらわないと、説得力を欠くのである。
反対論の要点は集約できるので、おおよそ理解すると、切り上げて、下記のような、一歩ひいて論じた本を手にとる。

「なぜ日本では臓器移植がむずかしいのかー経済・法律・倫理の側面から」


「先端医療のルールー人体利用はどこまで許されるのか」


私の持つ死生観は、私個人のもので、社会の意志決定としての「政策」がどうあるべきかは、別の話である。
脳死・臓器移植反対論者の中には、他人からの移植は、再生医療への過渡期の医療だとみなして否定する、つまり、再生医療が進歩すれば解決できると読めてしまう主張もある。
だがこの意見は、再生医学・医療においても、「人間の尊厳」の問題が存在することを見落としているように思う。
「人間が、『技術』をひたすら追及していく」限り、「何をどこまで守るか」の問題は、現在よりもっと深刻になっていくのではないか。

この観点に進むと、またどっさり本が並ぶ棚の前でうろうろし、そう簡単に結論は出てこない。
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■11/4 NHK「SONGS 財津和夫 Part 2」

財津さんだけでなく、見ている此方も、幸せな気分になった。
財津さんは、40年間、変わらずに、小田さんを想い続けてきたんだなあ。これが、本当に愛しているということなんじゃないだろうか。

財津さん、ほんとに、こんなに、恋する乙女みたいだったんですか、強調しすぎてません?と、番組を作ったNHKの人に、ちょっと言いたくなりそうだが、そう思うのは、自分は財津さんが「小田さんに首ったけ」なさまを昔見ていたからで、その記憶が明瞭でない人は、それほどは感じないのかな。

若い時分の財津さんは、天才肌の変人の類で、同業者に対しては辛辣で、ほぼすべて評価しなかった(切って捨てる)。彼の基準はビートルズだった。その中で、小田さんひとりだけが、例外だった。
そのことに気づいてから、発言に注意するようになったら、「小田さんが好き」であることが常に確認できる。ご本人は全く隠そうとしない。

私は財津さんの曲も好きだったので、このことは歓迎していた。気に入らないアーティストなら、うっとうしかったかもしれぬが、好きな相手同士だからいい。そして、普段は傍若無人タイプの財津さんの、小田さんへの崇拝ぶりと、対する小田さんのすげない態度が可笑しかった。
(小田さんは、財津さんを友人として扱っていたが、オフコースをやっていた頃は、自分のバンドの内に篭って、外部に対して高い壁を作り、今のような人付きあいをしなかった)

小田さんに「自分のために」曲を作ってもらうことは、財津さんにとって、長年の夢だったのだろう、と思う。ずっとずっと昔から抱き、かなわなかった望み。
小田さんの歌声を聞いた日に一目ぼれして、小田さんの作る音楽を聴き続けて、40年。
40年の想いが込められた歌というのも、そうはあるまい。

「SONGS」再放送
11月9日(月)17:30~17:59 BS2
11月10日(火)15:15~15:44 NHK総合
Category :  展覧会
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■ 東京国立近代美術館/所蔵作品展

約1年の間での自分の好みの変化が面白い。

1年前に見た時はピンとこなかった下村観山の「木の間の秋」に、昨日は、魅力を感じた。
何故だろう。琳派のパターンであることははっきり判る。現在の自分は、琳派は好みでないのに。
観山の絵は、東博平常展で「春雨」、次いで「鵜」に、引き込まれた。確かに琳派の技法や構図は認識できるけれど、私の目は、光琳や抱一とは別の要素を観山の中に見ているのだろう。

逆のケースもある。
3階つき当たりのガラスケースの中に、加山又造の「千羽鶴」があった。今年1月、新美の加山の展覧会に行ったが、今は、彼の絵を積極的に見たいとは思わない。
装飾性の強いものを好まなくなった。「ごてごて」「テカテカ」はうっとおしい気分のときが多い。
もっとも、自分の他に観客が誰もいない展示室で、豪華な屏風の正面の椅子にちんと座って、1人占めしている気分は悪くなかった。ちょっとした贅沢だ。こういう時間があってもいい。

素描コーナーの木村荘八「濹東綺譚」を、熱心に見入ってしまう。
挿絵というのは、ときどき、非常に魅力を持つものがある。ペンで描く黒い線一本が、えもいえない感情を呼び起こすことがある。かつて漫画に感じたのと同じ感覚のように思う。

他の収穫。北野恒富。「東都名所」の中で一番気に入った。
北野恒富は、7月に見た「戯れ」も、瑞々しく、素敵と感じた。美人画でいいと思うのはたまである自分には珍しい。

今の自分は、大規模な特別展(企画展)を、肩に力を入れて(期待をして)見に行くより、観客が少なく静かな東博平常展や近美所蔵品展で、「あら、素敵。誰?」とふっと感じて、近づき、「××か。覚えておこう」と新しい作家を見出したり、既知の作家の魅力を再発見したりする方が楽しい。
「有名作品を見に行く」のではなく、「気に入るものを自分でみつける」というスタンス。

といいつつ、実は、収集した館内チラシの中にあった「ボルゲーゼ美術館展」を見るなり、「うわ、見たい。すごく見たい!」と、テンションが急上昇した。
「京都?そんな・・」とがっかりしたが、「あ、巡回展が東京であるのでは?このレベルの絵画を日本に運んできて、東京でやらないはずがない」と気づき、帰宅して調べると、来年、都美に来る。大規模改修工事のための休館前の最後の展覧会であった。

■国立公文書館

近美を出て、東御苑の北詰橋門へ向って歩いていく。と、近美に隣接する国立公文書館の門が開いている。
土日休みなので、これまで何度も前を通っても、いつも閉まっていた。今日も日曜なのに?
と見れば、「天皇陛下御在位20年記念公文書特別展覧会 開催中」とある。

ははあ、なるほど。でも、別に面白そうなものはなさそうだ、と、入るのを迷っていると、横を、どんどん人が通り、入っていく。
人が入ると、あとをついていってみる気になるもので、機会がいつまたあるか判らないし、と入ることにした。

会場は1階で、入口を入ってすぐの所で、係りの方が、丁寧に挨拶して、パンフレットを渡してくれる。(入場は無料)
見ると、そのパンフ、えらい立派だ。厚くて、いい紙質で、オールカラー印刷で、全展示品のカラー写真と解説が書いてある。
こんな金のかかるパンフをタダで配ってるの?どういう予算になってるの?

というせこい発想はとりあえず横におき、展示室を眺める。公文書を入れたガラスケースが並び、上部には、対応するシーンの写真の大きなパネルが掲示してある。皇室写真展も兼ねている・・ような。

展示の公文書は、「役所の決済書類」という感じで、パターンが同じなので、最初の方のいくつかを、「ふうん、こういうものなのね」と一通り見ると、あとの方は飽きてくる。
基本的に「歴史資料」だから、対象物や事象に興味がないと意味がない。

自分は、日本史の個別事象について重箱の隅をつつく意欲を持ったことがないので、古文書の類も無縁で過ごしてきた。が、この先、興味を持つことがあるかもしれないので、ここにはこういう資料があって、こういう利用ができる、と知っておくのはいいかもしれない。

国立公文書館
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