南の国の太陽、空の色の獅子

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予想を超えた大当たりの展覧会だった。

■阿弥陀如来

第一は、ご本尊の阿弥陀如来像が、実に魅力的な仏様だったこと。

隣の部屋にいるとき、遠くにその姿が目に映った瞬間に、捕らえられた。
誰?あのすてきなお方は。

そろそろと足を進め、近づく。
正面に立つと、思わず手を合わせたくなる。

そういう感情を惹き起こす像は滅多にない。
それも、お寺ではなく展覧会場で。

この仏像を、私は今まで知らなかった。有名な仏像は一通り知っているつもりだったが、寡聞にして知らなかった。
展覧会のチラシには写真が掲載されていた。(上の写真)
これを見たときには、全く興味を惹かれなかった。

会場で実物を見たとき、チラシの写真の仏像と一致しなかった。
写真から受けた印象とまったく違う。

写真と実物でこれほど印象が異なる仏像を見たのは、記憶にない。

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この横顔の写真は、他の写真よりは、実物の面影を伝えているかもしれない。

金箔が多く残り、元の姿を想像させ易い。
私は今まで「金ピカの像」をあまり好まず、否定的だったが、金色の像は観る者の感情に訴えかけるものがある、という心理的効果を初めて実感した。
何を今頃、であるが、いいと思ったことがなかったのである。

■道明寺十一面観音

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こちらは、「期待通りに」素敵なお方だった。

今回の展覧会で私の一番の目当ては、これだった。
昔写真で見て、気に入っていたもののひとつだ。
奈良の仏像の主なものは回ったが、大阪は、行く機会を逸した。

十一面観音で見るべきは、渡岸寺(滋賀)、それとこの道明寺。
渡岸寺の観音様は、2006年に東京国立博物館に来て、うきうきしながら見に出掛けた。

道明寺のお方が来ると予告で知ったときはちょっと驚いた。
展覧会の広告では、(同じ藤井寺市内にあり、毎月同じ18日に開帳して拝観できるので訪問する場合はセットで行く)葛井寺の千手観音が目玉で、大きくアピールしていた。東京での公開は江戸時代以来という宣伝文句はインパクトがある。
だが私個人は、道明寺が今回の展示品のリスト最上位で、他にはさほど興味がなかった。

というのも、仁和寺には特に興味がない。空海にもないし、何を隠そう密教が苦手なのである。
秘法とか祈祷とかいう世界は肌が合わない。申し訳ないがご遠慮したい。

それで、入場すると、順路を無視し、「御室仁和寺の歴史」「修法の世界」「御室の宝蔵」の第一会場を後回しにして、仏像を並べた第二会場へ直行した。
第二会場の最初は、観音堂を再現したエリアで、人・人・人。
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入場制限は解除になっていたから大丈夫と思ったのに、これはたまらん、とうんざりしたら、どうやら「撮影OK」なので人気を集めていたらしく、次の「御室派のみほとけ」のエリアは問題なかった。

この「観客が比較的少ない」エリアの展示が、ものすごかった。
葛井寺と道明寺のご本尊二体だけでもすごいのだが、他にもご本尊や秘仏がぞろぞろ。「開帳は33年に一度」という秘仏まである。
ものすごい頑張りよう、よくぞここまで集めたもの、と感心してしまった。

ご本尊というのは、基本的にお寺にいらっしゃらないといけない存在だ。展覧会に運んできてしまうと、その間、お留守ということになる。こんなに集めて、お留守のお寺が続出でいいんだろうか。

と心配をしたら、道明寺では、ご本尊が不在の間、代わりに、普段は非公開の重文の十一面観音を特別開帳する、という案内を出していた。なるほど、それはそれでいいことだ。

■お出ましいただいた皆様方

展覧会場の説明パネルの中の一節。
「本展にお出ましいただいている仏像を例に、各像の一般的な特徴をご紹介いたします」

名高い仏像が展覧会に出されるとき、「お出でになる」とか「いらっしゃる」といった敬語を使うのが習いである。
博物館の展覧会場に置かれた仏像は、材質がどうのだのX線で内部を調べるだの、「モノ」として扱われる。
観覧者は、美術工芸品を見に来る感覚で、「観察」したり、写真を撮ってもいいなら撮りたがる。

だが、仏像というものの本質は「信仰の対象」であって、そのことを忘れてモノとして観察されるべきものではない。
自分には長い間その感覚があって、展覧会に仏像を見に行くのは気が進まなかった。
見るなら「本来居るべき場所である」お寺へ、「置かれた場」も含めて見るものだ。

とはいっても、当面見に行く予定がなく、東京で機会があるなら、行こう、となり、この数年は「見に行きそびれていた」仏様いくつかを東博で見ることになった。
昨秋の「運慶」での円成寺の大日如来もそのひとつ。
これが会場の最初の部屋に展示してあったのには面食らった。メインとしてラストに置いてもいい仏像だと思っていたのに。製作年代の時系列に並べたからそうなったのは理解できるが。

■第一会場

後回しにした第一会場へ向かうと、閉館時間が近いせいか人がほとんどいない。
歴史資料は、ガラスケース内の小さいものも多く、これでは行列して入場制限がかかるわけである。

人がいないと、待たされることなくどんどん進む。
かつ予習で事前に読んでおいた書籍の内容とほぼ被っていて、パネルの解説を読む必要がない。「これが実物か」という確認作業に終始した。
本を読んでいなかったら時間が足りなくなるところで、助かった。

予習した本
もっと知りたい仁和寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたい仁和寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)
久保 智康 朝川 美幸

東京美術 2017-11-30
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この展覧会の解説書なのか?と思ってしまうくらい、掲載された仁和寺所蔵の宝物の多くが、本展覧会に出品されている。

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10~11月、永青文庫で開催された長谷川等伯作の南禅寺天授庵の襖絵全32面公開に行ってきた。

等伯の作品の中で特段興味があるわけではない。が、三室の全画面一挙公開という機会はまたすぐにはあるまい。

調べてみると、通常は天授庵の収蔵庫に収められて非公開。
展覧会に出品されることはあるが一部に限られる。
近年複製画を製作し、方丈の元の場所に嵌めての期間限定公開を時折行っている。
・・ということが判った。

天授庵は細川家にゆかりがあることから、永青文庫での展覧会が実現したという。

4階の展示室で、ガラスの向こうの現物を睨みながら想像力をフル回転させ、室内にはめこんだ情景を頭の中で描いて過ごした後、2階の休憩スペースのソファに座り、陳列してある季刊誌や参考図書に記された解説を読んだ。

等伯の説話画 南禅寺天授庵の襖絵等伯の説話画 南禅寺天授庵の襖絵
須賀 みほ

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この書籍には、大いに助けられた。
複製画を嵌めて撮影した方丈の写真が多数掲載されている。
先ほど自分の想像だけで頑張っていたが、「これこれ、これを見たかったのよ」。

更に、巻末に記された指摘が刺激的だった。

近世以前の日本の絵は、現代のわたしたちが普通に考えるいわゆる”絵画”というものとはまったくことなっている。何より、画面となるものが観る人によって動かされ、そのつど変化するのである。絵巻、扇、屏風、そして襖ー掛幅のように大陸から伝わったかたちをそのまま保つものは別として、日本で独自の発展をとげた画面形式はどれも動くことを前提としており、うしろに壁がある訳でもなく、平面なのか立体なのか、抽象か具象か、そうした概念すらあてはまらない。


そう。襖は、開け閉めする。
襖を開いたとき、描かれた人物や風景は動き、重ねられて下になった画面の人物や風景は消える。
開いた襖の間に出現した空間には、次の間の襖に描かれた場面が現われる。

襖に描かれた絵を単体として切り取れば平面的にみえるが、現実には、32面の襖が立体的かつ動的に構成されている、といってよい。
三室の画面は連関しており、室内に滞在する人は、等伯の作り上げた絶妙な物語の世界に浸ることになる。

本書の解説を読み、複製画を嵌めて公開したときに天授庵に行ってみたい衝動が湧き上がった。



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永青文庫の季刊誌の冒頭には、毎号、細川護熙氏の挨拶文が近影と共に掲載されている。
毎度ダンディな佇まいで、見栄えのよい理事長で結構だが、ちょうど衆議院選挙の直後だったため、思わず嫌味を一言。

「政治の話にはもう関わらない方がいい。小池百合子に期待するなんぞ此方からみれば最初からお話にならない。お殿様の末裔らしく、文化芸術の領域の活動で済ませておくのが世のためですね」

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近美のリニューアル後第一弾の企画展は、所蔵作品の一挙公開である。
東京国立近代美術館 60周年記念特別展
美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年


「一度見たものが多いから、さほど時間はかかるまい。1時間半程度ですむだろう。陽がまだ高いうちに北の丸公園と東御苑の紅葉を見に行かれる」が、腹積もりだった。
が。
開館少し後の10時過ぎに入って、出たのは午後2時半。

なぜ4時間もかかったのか。

●第2部 実験場1950s

4~2階を予定のスピードで見終わり、1階もとっとと終えるかと思ったら、そうならなかった。
あとで振り返ると、納得する。従来、4~2階は所蔵品展、1階は企画展のスペースである。今回、4~2階を第1部として企画展に繰り入れたが、実態は、以前と同様の所蔵品展なので、時間を要しなかった。対して、第2部の1階の展示は、「企画展」と名乗るに相応の内容だったのである。

そして、「1950年代」をテーマにした第2部では、複数の映像作品の上映があった。
会場に足を踏み入れて最初に目に飛び込んでくる、真正面に設置したビジョンは、原爆のニュース映像を繰り返し流している。
第1のセクションのタイトルは、「原爆の刻印」。

ニュース映像を通しで見、会場を進んでいくと、また何か上映している。
展覧会場でオープンに上映するのだから、長尺ではなかろう、先程の映像も10分台だったし、とキャプションを見ず、タイトルも作者も長さも認識せぬまま、椅子に座った。(私は、展覧会では通常、キャプションを、「作品を見た後」に見る)
20分くらい経ったが終わらない。どうも長そうだ。でも、途中で止められない。(理由は後述)
通しで見終わって、感覚で「1時間だな」。キャプションを見にいくと、「56分」。

タイトルは、「流血の記録 砂川」
米軍基地反対闘争のドキュメンタリー。舞台は、東京都立川基地の飛行場拡張エリアの砂川。
描かれる「事実」への関心に加え、映像作品としての質の高さを感じ、途中で切り上げる気にはなれなかった。全部見たい。

エンディングのクレジットの中に「亀井文夫」の名を見たとき、「あっ」となった。
亀井文夫は、読了したばかりの「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)の中で、戦中~占領期の最も優れた才の映画監督として描かれていた。自分は、発禁処分にされた「日本の悲劇」を機会あれば見たい、と大いに関心を持った。
今日ここで、作品に出会うとは、思いもしなかった。

尤も、私が今回、基地闘争を含めた1950年代の社会の記録の第2部の展示を、強い関心を持って見たのは、「敗北を抱きしめて」が影響している。
1945年の敗戦から占領期の日本社会を分析した記述を読んでいた間、「ショックを受けている自分」に、私はショックを受けていた。
描かれた事象の多くは、これまでに「全く」知らなかったことではない。一度は読んだり聞いたりしたことがあると思う。
しかし、それが持つ「意味」を、私は理解していなかった。

「これまで私は何をしていたのだろう」
この数年、たびたびそう思う。
今頃になるまで、どうして気づかなかったのか。
打ちのめされ、それから、「気づかぬよりまし」と立ち直る。それを繰り返す。

●第1部 MOMATコレクションスペシャル

・リニューアルに関して。
ガバッと広がっていた空間を、手ごろな大きさの展示室に区切り、「今風」(最近の新築の美術館の傾向)になっている。
動線もよくなった、と思う。

「照明」について、改修前との比較。
4F展示室1(ハイライト)の照明が、私には心地よくなかった。私個人の好み。
以前、気になって仕方なかった、ガラスで保護した日本画が、反射で鑑賞者の姿が映りこんでしまう点が解決されていたことはよかった。
東山魁夷は、「必ず」映りこむ、と諦めるしかなかった。今回無事だった。嬉しい。

・足を止めて暫く前にいたのは、「松山雲煙」(村上華岳)と「いだく」(高山辰雄)の2点。

●現在

藤田の戦争画の代表作「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」2点が並べてあった。
「サイパン島」の前で、50代くらいの男性が連れの女性に話し掛けた台詞が聞こえた。
「これを石原慎太郎に見てもらいたい」

「いや、石原の反応は、『二度とこういう目にあわないために、日本は強くならないといけないんだ。ちゃんと軍を持つんだ』だと思いますよ。
見せたいと言うなら、『石原に権力を与える結果を招く投票行動をしようとしている人々』に対してじゃないですか。
それと、底の浅い藤田の絵より、1階で流している原爆ニュースの方がいいですよ。あれも、残念ながら、あまりインパクトが強いものではないですけど、藤田よりまだましでしょう。石原は、『核武装』が持論ですので」
(今思い浮かぶ反応)

「敗北を抱きしめて」のエピローグで、ダワーはこう記した。
ひとつの時代が、1920年台後半に始まり、1989年に実質的に終わった。
「西欧に追いつくという目標をひたすら追求してきた日本が、経済と技術では目標を達成したものの、新しい進路を描くだけの構想力と柔軟性に欠けていることが誰の目にも明らかになった瞬間であった」

「日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義化という目標も今や捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入ってはいない」

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
ジョン ダワー John W. Dower

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「ようこそ、わが宮殿へ」のキャッチにザブトン3枚

「若冲より応挙、池大雅。道の極みは、華麗な色彩ではなく、水墨画」という趣味になってきたはず・・だったのに、「ヨーロッパ貴族のゴテゴテテカテカの世界」に舞い戻ってしまった。
自分は、こういうのも、まだまだ好きなのだった。枯淡の域にはまだまだ至っていない。

そもそも、私は、ルーベンスは、好きでない。
ヴァン・ダイクも、好みの部類には入っていない。
なのに、「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」を見に行こうと思ったのは、6月末にマウリッツハイス美術館展を見に行った都美の館内(1F、美術情報室へ向かう通路の壁)に張ってあった、下の図柄の「2枚の大きなポスター」に目が止まり、強く惹かれたからであった。

リヒテンシュタインリヒテンシュタイン3

展覧会公式サイト

ルーベンスは、これまでいいと思ったことがない。
だが、このポスターは、不思議なくらいの力で、私を引きつけた。抗いがたいほどに。

カンは、外れていなかった。

リヒテンシュタイン侯爵家のコレクションを紹介した本展の目玉である、絵画や彫刻だけでなく、タペストリー、家具、鏡、燭台等を並べ、天井画を配して、宮殿の一室を再現したかのような「バロック・サロン」と、3×4mの巨大な「デキウス・ムス」を含む10点を展示した「ルーベンス・ルーム」は、そこに身を置いているだけで快感に浸る。
特定の作品がどうこうでなく、「空間の雰囲気」が、好ましい。

友人が同伴でなかったら、もっと長い時間居座って、引き上げるのがいつになったやら。

ギャラリーの個々の作品も、注意をひくものが多数あった。
ビーダーマイヤーの作品には、自分はこれまで疎かった。フリードリッヒ・フォン・アメリングという作家を初めて知った。魅力的である。

・混雑具合
一般人への訴求力は強くない、それほど混雑はしまい、と推測して、当たった。
土曜の午後で、ストレスなし。
但し、本日(10/21)「日曜美術館」のアートシーンで紹介されたので、今後は今より混むかも知れない。



<豆知識>展覧会の混雑をなるべく避けるにはいつ行けばよいか

一般的傾向をいうと、
会期の初めの方が空いている。後になるほど混む。
「日曜美術館」等のTV番組で紹介されると観客が増える可能性がある。放映が判っていたら、放映前に行くのが得策。

・一日の中では、閉館間際が一番空いている。夜間開館があるものは、これが一番。
日中に行く場合、開館すぐは、開館前から並ぶ熱心な観客がいるから、存外混む。開館同時入場組から少しずらした時間帯の方が空く。

よって、
人気が非常に高く、大混雑必至のもの(例・フェルメール)は、初日に行く。無理なら夜間。
それほどでもないものは、熱心な美術ファンが訪れて混む第1週は避け、2~3週目。
いずれも、「人気の程度」を事前に推測することがポイント。

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東京国立近代美術館のイベント「Concerto Museo / 絵と音の対話」に出掛けてきた。
http://www.momat.go.jp/Honkan/concerto_museo/index.html

所蔵作品の展示の前で演奏会が行われる、という企画に興味を引かれ、初日に楽しめたので、3回全部に行った。

8/10 「絵と音ー対話的手法」
松平敬(バリトン)
グレゴリオ聖歌、ジョン・ケージ、早坂文雄、クルト・シュヴィッタース他
8/11 「アルマ・マーラーの傍らで」
金持亜実(ソプラノ)、岩田友里(メゾソプラノ)、斉藤雅昭(ピアノ)
シューマン、シェーンベルク、アルマ・マーラー
8/12 「抽象芸術の相即」
渡邉辰紀(チェロ)
J.S.バッハ、スティーヴ・ライヒ、黛敏郎、カール・ヴァイン

それぞれ持ち味が大きく違い、観客層も違っていたのが面白かった。
ざっくりいうと、アプローチが「美術」側の人と、「音楽」側の人、2種類いて、これに「なんでも可」が加わった感じ。

私自身は、どちらかというなら美術側。
近美の所蔵品展には2年ほど通って主なものは見たから、今回の展示のほとんどは馴染みである。
クラシックの演奏会には以前行っていたが、近年はご無沙汰で、かつ行ったのは専らオーケストラで、声楽も器楽も室内楽も聞いたことがなかった。
この春、初めて声楽を聞き、今後、ぽつぽつ行きたいな、と思っていた。

絵画と音楽のコラボレーションという観点では、1日目が、最も成功した構成だったように思う。
セレクトした絵画と演奏曲の関連付けをしっかりやり、演奏者のMCも巧みだった。
現代音楽は、クラシックのように気持ちよく聞けるものではなく、自分のような素人には「なんですか、それ」となるものが多い。
それらを興味深く聴くことができるような演奏会で、予定時間をオーバーして、全く飽きさせなかった。

2日目は、タイトルそのまま、ココシュカの「アルマ・マーラーの肖像」の傍らで、アルマ・マーラーの作曲した歌曲を歌う。
他の選曲もアルマからの関連。やろうと思ったら、アルマの絵1点で、2時間くらいの演奏会を作れてしまう。アルマ・マーラーとはそういう存在だ。

そのため、展示した他の作品の意味が無くなってしまった。
藤田嗣治は嗣治だけで、別に演奏会を構成できる。エコール・ド・パリ関連でもよし、他の観点を取り上げるもよし。
なので、今回は、思い切って、「アルマ・マーラーの肖像」1点で勝負してもよかったのではないか。
大胆な案ではあるが、この絵は、それをやってもいいくらいの価値を持っていると思う。(近美のコレクションの中にこれがあることを知ったとき、吃驚したのなんの)

この日のメインの岩田友里さんは、アルマ・マーラーの研究家だという。アルマを語らせたら止まらない、と自称したが、それに相応しい、目を引く美貌の持ち主だった。
堂々とした美貌のみならず、長身で、存在感がある。

演奏前のトークに登場したときは黒のシンプルなワンピースで、演奏時には裾を僅かに引き摺るロングドレスに着替えた。
ドレスの色は、青がメインで、アルマの肖像画の色に合わせた?と思った。
肖像画のアルマの服は紫系統だが、背景はココシュカの「青」である。

人の肉声には、マイク等の機械を通すと消えうせる、圧倒的な魅力がある。
それは、受け手の肉体に直接作用する、官能的なものだ。同性のものであっても、そう感じる。

そして、「この音は、自分の目の前に存在する者が発していることを、視覚で確認する」ことによって、陶酔感は一段と高まる。
私はずっと、「クラシックを聞くのに、視覚はどうでもいいんじゃないの。家ではCDで音だけを聞いて満足しているんだし」と思っていたが、それは「演奏者が多数で、遠方で豆粒の、大ホールでのオーケストラしか聞いたことがなかったから」であったことを、先日知った。
演奏者が一人の場合、視覚は、非常に重要なのである。演奏者の姿が見えるか見えないかによって、充足感がまったく違う。これには、吃驚した。

2日目も堪能したが、今回、私を最も魅了した音は、3日目のJ.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調」のチェロのそれだった。

私は、オーケストラの中で、チェロの音色が最も好きだ。
この日は、抽象芸術の共通性というテーマで、演奏前のトークでは、構成を担当した浅岡洋平氏が上手い話を色々したのだが、演奏が始まったら、私の頭から「左脳で聞いた話」はすべてふっとび、ただひたすら、チェロの音に酔っていた。

表現するなら、「天国にのぼっていきそう」。
チェロを聴きながら死んでいけたらいい。



3日目、たまたま席を隣り合わせた方とお喋りをした。
休みを使って大阪から来て、都内を色々回り、ここには通りすがりで入ったという。
こういう催し物が沢山あって、東京は凄いですね、大阪はこうはいきません、と言われて、相槌を打ちながら、ふと、連想したことがあった。

ロンドン五輪が盛りあがり、今、東京招致について世論調査をしたら、過去にない賛成票を得られるのではないだろうか?下手をしたら、冗談ぬきで、実現しかねない。

私が東京招致に反対する理由は複数あるが、今一つ、気づいた。
現在の日本の持つ根源的な問題のひとつは、「東京への一極集中」だ。東京には、何もかもが集中している。経済も政治も文化もすべて。
東京での五輪開催は、それをますます助長するだけではないか?

五輪開催によって利益を得るのは在京の人間や会社で、「現在すでに豊かな者・恵まれた者を、更に豊かにする」だけではないか?
現在、持たざる者、東京の犠牲になっている地方の者は恩恵にあずかれず、格差拡大を助けるだけでは?

将来維持費の負担がのしかかる、競技施設複数を新設するなんて、長野五輪どころか、原発立地県がやったことと同じじゃないか。過去から何も学ばないのか、この国の人間は、と文句を言っていたが、もっと広い見地に立てば、この点は、それほど重要ではないのかもしれない。

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